池田 慶栄(いけだ よしたか)は、江戸時代後期の大名。因幡鳥取藩の第11代藩主。官位は従四位上・侍従、因幡守。
略歴
加賀藩主前田斉泰の四男として誕生した。母は徳川家斉の娘・溶姫。幼名は喬心丸。
嘉永元年(1848年)、10代藩主池田慶行が17歳で早世したが嗣子がいなかったため、幕府は喬心丸(時の将軍徳川家慶の甥にあたる)を藩主に、鹿奴藩主池田仲律の娘で慶行の同母妹にあたる延子(後に整子〔さだこ〕)を嫁がすよう指示した。嘉永2年(1849年)、喬心丸は伯父である家慶の前で元服し、偏諱を受け慶栄と名乗り、従四位上・侍従に叙任、因州池田家代々の因幡守を名乗る。
翌嘉永3年(1850年)、慶栄は初めての国入りのためその途についたが、江戸から鳥取への道中で病に罹り、京都の伏見藩邸にて急死した。享年17。慶栄の死は、他家からの養子を快く思わない鳥取藩による毒殺との噂が流れた。嗣子が無かったことから、水戸藩主徳川斉昭の五男・昭徳(池田慶徳)が養子となって跡を継いだ。
系譜
- 父:前田斉泰(1811年 - 1884年)
- 母:溶姫、偕子(ともこ)、景徳院(1813年 - 1868) - 徳川家斉の二十一女
- 養父:池田慶行(1832年 - 1848年)
- 正室:聡姫、整子、延子、宝隆院 - 池田仲律の次女
- 養子
参考文献
- 財団法人史跡鳥取藩主池田家墓所保存会/作成『史跡 鳥取藩主池田家墓所』(2006年3月31日刊行)
因州池田家 鳥取藩11代藩主 (1848年 - 1850年) |
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長吉流 | |
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宗家 (利隆流) | |
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別家(忠雄流) |
- 光仲1632-1685
- 綱清1685-1700
- 吉泰1700-1739
- 宗泰1739-1747
- 重寛1747-1783
- 治道1783-1798
- 斉邦1798-1807
- 斉稷1807-1830
- 斉訓1830-1841
- 慶行1841-1848
- 慶栄1848-1850
- 慶徳1850-1871
- 廃藩置県
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