前田利鬯

前田利鬯
まえだ としか
生年月日 天保12年6月12日1841年7月29日
没年月日 大正9年(1920年7月27日
前職 加賀大聖寺藩
称号 正二位子爵
配偶者 正室:伊東祐相の娘、久
継室:前田利保の娘、美子
側室:玉木氏(玉照院、栄)
子女 隆子(稲葉正縄正室)、亀子(前田利彭正室)
養子:利彭
親族 前田斉泰(父)、前田貞事(養父)、前田利行(養父)、前田慶寧(兄)、池田慶栄(兄)、前田利義(兄)、前田利行(兄)、前田利同(弟)

選挙区 子爵議員補欠選挙で当選
在任期間 1897年(明治30年)12月15日 - 1904年(明治37年)7月9日
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前田 利鬯(まえだ としか)は、江戸末期大名明治から大正期の日本政治家華族位階爵位正二位子爵

加賀大聖寺藩第14代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事、宮中祗候太政官御用掛、修史館御用掛、掌典貴族院子爵議員、御歌所参候などを歴任[1]

生涯

天保12年(1841年)6月12日、加賀藩主・前田斉泰の七男として生まれる。はじめ加賀藩士・前田貞事の養子となって安政元年(1854年)にその家督を継いでいたが、安政2年(1855年)に大聖寺藩で兄の利義利行が相次いで死去したため、利行の末期養子となって跡を継いだ。

幕末期の動乱の中では、東方芝山を登用して、富国強兵を行なう。また、佐幕派として天狗党の乱禁門の変、御所の警備、東叡山守備などで功績を挙げた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では幕府軍に与しようとしたが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたことを知ると、やむなく新政府軍に与して北越戦争に出兵した。

明治2年(1869年)の版籍奉還藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。明治17年(1884年)に子爵となる。1897年(明治30年)12月15日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[2]、1904年(明治37年)7月9日まで在任した[3]。大正9年(1920年)7月27日、東京に於いて薨去。享年80。

父、また宝生流家元・宝生友于に学んで能をよくした。素人ながら芝公園能楽堂の舞台にも立ち、また謡250番を諳んじていて、どんな曲でも求められれば即座に歌うことが出来た。晩年は失明同然であったが、それでも舞・謡ともに変わらずに勤めたという[4]

栄典

家族

父母

側室

  • 栄、玉照院 ー 玉木氏

子女

養子

顕彰碑

2022年10月、大聖寺デジタル案内人協会によりJR大聖寺駅前の歴町センタービル入口に前田利鬯とその重用した漢学者の東方芝山の二人を顕彰する石碑が建立された[6]

脚注

  1. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 416.
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、7頁。
  3. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』54-55頁。
  4. ^ 野々村戒三『能の今昔』(木耳社、1967年)
  5. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
  6. ^ 地域発展の礎 駅前に顕彰碑 14代藩主「前田利鬯」 漢学者「東方芝山」”. 中日新聞. 2022年10月30日閲覧。

参考文献

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342 

外部リンク

  • [1]  虎屋文庫「歴史上の人物と和菓子 前田利鬯(まえだ としか)と辻占昆布(とらやトップページ→とらやホームページ→菓子資料室・虎屋文庫→歴史上の人物と菓子→前田利鬯)


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
大聖寺前田家初代
1884年 - 1920年
次代
前田利満

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