永禄の変(えいろくのへん)は、永禄8年5月19日(1565年6月17日)、室町幕府13代将軍足利義輝が、三好義継・松永久通らの軍勢によって京都二条御所に襲撃され、殺害された事件である。永禄の政変と呼称されることもある[注釈 1]。なお、松永久秀も事件の主導者の一人とする記述が従来多く見られるが、実際に事件に参加したのは息子の久通であり、事件当時、久秀は大和国にいたため、関与はしていない。
経過
将軍側は三好氏を警戒し、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。ルイス・フロイスの『日本史』によれば、将軍義輝は事件前日の永禄8年5月18日に難を避けようといったん御所を脱出している。しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。
翌5月19日、御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、三好・松永らは清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた(後述のように、この訴訟は偽りではなく本来の目的だったと見る説もある)。奉公衆の進士晴舎(しんしはるいえ)が訴状の取次に往復する間、三好勢の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。
将軍方の応戦は激しく、一色輝喜、上野輝清以下十数名が三好勢数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹[注釈 2]し、義輝は近臣たち一人一人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。治部藤通やその弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取った。剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ[注釈 3]義輝も自ら薙刀を振るい、その後刀に持ち替えて奮戦したという[注釈 4]。
しかし、多勢に無勢の中、昼頃までに義輝や進士藤延(進士晴舎の息子)、荒川晴宣、荒川輝宗、彦部晴直、彦部輝信、杉原晴盛、小笠原稙盛、沼田光長、細川隆是、武田輝信、摂津糸千代丸(摂津晴門の子)といった主従全員が討死・自害した[注釈 5]。公家山科言継の日記『言継卿記』の永禄八年五月十九日条は、奉公衆が大勢討死し、同日の午の刻の初め頃(昼前)には将軍も「生害」されたと伝えている[注釈 6]。
また、義輝の正室の大陽院(近衛稙家の娘)は実家の近衛家へ送り届けられたが、義輝の生母・慶寿院(近衛稙家の妹で12代将軍義晴の正室)は自害した。フロイスの記述によれば、三好勢は義輝が寵愛していた側妾の小侍従局(進士晴舎の娘)殺害を要求の一つに掲げており、彼女は混乱に紛れて御所を脱出し身を隠したものの、探索の末に捕えられ四条河原で斬首された。なお、フロイスによれば、変の当時小侍従局が懐妊していたとする説明があるが、彼女は変が起きた1か月前の4月17日に義輝の三女となる女子を出産しており(『言継卿記』)、正確な記述ではない。
一方、三好氏に近かった幕臣の伊勢貞助は、義輝を助けずに御所内にあった室町幕府歴代の重宝が入った唐櫃を密かに御所外に搬出したという[7]。また、変の直後に奉公衆や奉行衆が三好長逸の所に挨拶に赴くなど、義輝の執政により回復したかに思えた幕府の脆弱さが露見する結果となった。
討死・自害した人物
※『言継卿記』などによる[8]。
- 畠山九郎
- 結城主膳正
- 朝日新三郎
- 谷田民部丞
- 高木右近
- 小林左京亮
- 小林某(小林の弟)
- 小林某(小林の弟)
- 小森左京進
- 西面左馬允
- 田村刑部大輔
- 田村勘三郎
- 飯田左吉(右兵衛尉)
- 中井助左衛門尉
- 西川新右衛門尉
- 森田新左衛門尉
- 八田十右衛門尉
- 有馬源二郎
- 木村小四郎
- 松原小三郎
- 粟津甚三郎
- 松井新三郎
- 疋田弥四郎(匹田弥四郎)
- 二宮弥三郎
- 林与五郎
- 村田弥助
- 畑某
- 高橋某
- 一河某
- 摂津糸千代丸
- 大館岩千代丸
- 福阿弥(治部藤通の弟)
- 台阿弥
- 松阿弥
- 竹阿弥
- 竹阿弥
- 金阿弥
- 大弐(足軽衆)
『言継卿記』には一色又三郎は討死したとあるが、実際は義昭(義秋)の偏諱を受けて秋成と名乗り、その下で活動の記録が見られる[9]。小笠原稙盛はこの戦いで死亡したとされるが、永禄12年5月7日付の幕府奉行人連署奉書には稙盛が「令一味御敵」を理由に所領の没収を命じられたことが記されている。木下昌規は、稙盛が死を免れ、変後に三好三人衆によって擁立された足利義栄に仕えたため、後に足利義昭が将軍になると処分を受けたと推測している[10]。
小林正信は、討死したとされる進士藤延が生き延びて明智光秀と名を変えたと推測し、光秀家中に見える進士貞連は実弟で、藤延の代わりに進士氏の家督を相続したとしている。また、藤延の妹で義輝の側室だった小侍従局は光秀の妻である妻木氏(妻木煕子)になり、小侍従局の身籠っていた子供は明智光慶になったとしている。ただし、前述のように小侍従局は1か月前に既に女児を出産しており、事実関係に矛盾が生じている。
事件の背景
三好長慶の台頭
四国阿波の守護代であった三好氏は、主家の阿波守護細川氏が細川宗家(京兆家)の後継争いに関わったことから畿内に進出していった。三好元長は堺公方足利義維と細川晴元を擁して時の将軍足利義晴や管領細川高国と対峙したが、高国滅亡後に堺公方側から将軍側に奔った晴元は山科本願寺とも手を組み、享禄5年(1532年)に一向一揆に攻め込まれた元長は和泉国堺の顕本寺において自刃した(享禄・天文の乱)。
元長の嫡男長慶は、父の死によってわずか10歳で家督を継いだため当初は細川晴元の下で雌伏しつつも、摂津国越水城に本拠を移して着実に勢力を伸ばし、やがて晴元と対決する。天文18年(1549年)、長慶が仇敵だった晴元の側近三好政長を摂津江口の戦いで討つと、晴元は将軍義輝と前将軍義晴を連れて近江国坂本へ没落し、岳父で近江守護の六角定頼を頼った。いったん入京した長慶はその後摂津に下って伊丹城の攻略に当たり、その間に義晴は東山で中尾城の築城に着手したものの体調が衰え、翌19年(1550年)5月に坂本南方の穴太で死去した[注釈 7]。長慶は3月に伊丹城を攻め落として摂津の平定を終えていたが、その上洛の動きをつかんだ義輝は6月に中尾城に入り、細川晴元と六角定頼の軍も洛東に進出した。三好方は三好長逸・十河一存の軍勢が上洛し膠着状態が続いたが、11月に長慶が大軍を率いて摂津から攻め上り中尾城を攻めると、義輝は近江堅田まで退却した。
天文20年(1551年)に将軍義輝と上野信孝ら側近の反三好姿勢を支持しない政所執事伊勢貞孝や進士賢光ら幕臣数名は、義輝を連れ出して長慶との和睦を強行しようとするが、事が露見すると京都に逃れて三好方に降った。21年(1552年)に入って六角定頼が没すると、跡を継いだ六角義賢の仲介によって将軍方と三好方の和睦が成立する。近江朽木に移っていた義輝は京都に戻り、これを迎えた長慶は御伴衆に列せられ陪臣(細川氏の家臣)から将軍直臣の地位に上った。ところが、若狭に没落した細川晴元が勢いを盛り返し丹波を攻め上り洛東に至ると、はじめはこれに対抗した義輝であったが、翌22年(1553年)になって上野ら反三好派側近の主導によって晴元と結び、長慶に敵対する。しかし、摂津に在陣していた長慶が急ぎ上洛してくるとあえなく退却し、再び朽木に移ることとなった。親三好派や所領没収を恐れた多数の幕臣が帰京して幕府は崩壊した。以降、長慶は足利将軍家を奉じない権力として摂津芥川山城を拠点に畿内の支配を推し進めた。
将軍義輝の復権
だが、将軍と対立し幕府機構に頼らないまま京都の支配を維持することは困難であった。その上、義輝が朽木へ動座した後も断続的に六角氏や畠山氏の攻撃を受け、京都支配は一向に安定する兆しを見せなかった。永禄元年(1558年)、長慶は六角義賢の支援する義輝や細川晴元の攻撃を受け、戦況は優位に推移していたものの、六角の仲介を容れて和睦した。義輝は5年ぶりに帰洛し、長慶は御相伴衆に列せられて有力大名としての待遇を受けることとなり、幕府は将軍・三好氏が協調する形で復活した。三好政長の子でこれまで敵対してきた三好宗渭も長慶に従った。
長慶はこの頃から政権を支える有力な一族を相次いで失う。永禄4年(1561年)に弟の十河一存が病死。翌5年(1562年)には阿波衆を率いる弟三好実休が畠山高政との戦いで戦死(久米田の戦い)。6年(1563年)には嫡男義興も22歳の若さで病死した。さらに7年(1564年)には弟の安宅冬康に嫌疑をかけて自害させたが、長慶自身すでに衰弱しており同年7月に没した。三好氏の当主は、十河一存の子で長慶の養子となっていた義継が相続した。
三好氏の勢威に陰りが見える一方で、将軍義輝は全国の大名に紛争調停を行なったり幕府の役職を与えたりして将軍権威の回復を図った。永禄2年(1559年)には、美濃の斎藤義龍、尾張の織田信長、越後の長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛した。また、永禄7年には敵対していた政所執事の伊勢貞孝を敗死に追い込み、新たな政所執事に義輝の義従兄弟にあたる摂津晴門を起用し、従来将軍の意向が及ばなかった政所を掌握して幕府決裁に対する影響力を強め将軍親政を進めようとした。
変前の三好氏と将軍
この事件の目的・動機を考えるにおいては、事件前の三好氏の将軍との関わり方がどのようなものだったかが問題となる。
天文年間の末から永禄初年に至るまで、将軍と三好氏は武力衝突を繰り返した。また、天文20年(1551年)3月には、奉公衆の進士賢光が伊勢貞孝邸で催された宴席で長慶に斬りかかり負傷させるなど、長慶が命を狙われる事件がたびたび起きている。『細川両家記』などによれば、本領安堵をめぐる賢光個人と長慶との対立を原因とする説とともに、将軍の密命を受けた賢光が長慶暗殺を狙ったのではないかという世上の見方もあったことがわかる。また同年5月には、長慶の岳父で河内守護代の遊佐長教が刺客に殺害される事件も起こり、当時これも将軍が黒幕と推測された[12]。
しかし、永禄元年(1558年)末に双方は和解し、三好氏が将軍を支える協調体制が整えられ、変の起こる永禄8年(1565年)まで比較的平穏な時期が続いた。ただ、幕権強化を目指す将軍側はこの体制を従容として受け入れていたわけではなく、山田康弘は「雑々聞検書」から永禄2年(1559年)と思しき二月二十六日付の書状を引用し、当時三好氏や伊勢氏の間に不慮の雑説が流れていたことを紹介し、将軍側から三好氏・伊勢氏の分断工作や伊勢貞孝の孤立化を目指した工作が行なわれていた可能性も考えられると指摘する。織田信長の家臣太田牛一が記した『信長公記』も、将軍側が三好氏に対して謀反を企てたため殺害されたとする。
近年では、三好側には明応の政変(1493年)以来70年に及ぶ将軍家の分裂(足利義稙系と足利義澄系)[注釈 8]を解消させる積極的な意図があったとする説[14]や、三好勢による二条御所包囲は室町時代に繰り返されたいわゆる「御所巻」(大名らが将軍邸を包囲して政敵の失脚などを強要する行為)の一つに過ぎず、実際に訴訟(要求)を目的としていたところ、取次の際の齟齬あるいはその過大な要求と将軍側の強硬な姿勢から両者の衝突に発展してしまったもので、将軍殺害は当初の計画ではなかったとする説も出されている[注釈 9][15][16]。もっとも、両説共に矛盾を抱えているとする指摘[注釈 10]もあり、三好側の真意が何処にあったのかは確定できない。
事件後の推移
義昭の脱出
三好勢は義輝異母弟の鹿苑院院主周暠をも殺害したが、一方で当時大和にあった松永久秀は義輝の同母弟である興福寺一乗院門跡覚慶(後の足利義昭)に誓紙を差し出して身の安全を保証し幽閉するにとどめた。阿波に在国する足利義維(義冬)・義親(義栄)父子を擁する四国勢が畿内に進出してくると見越した久秀が、対抗するため自前の将軍候補を温存しようとしたとも考えられる。
畠山政頼(秋高)の重臣安見宗房は上杉謙信の重臣に宛てた6月24日付書状で謙信に挙兵を促し、慶寿院(義輝生母)の兄である大覚寺門跡義俊が越前の朝倉義景、若狭の武田義統、尾張の織田信長らを調略していることを伝えている。そして朝倉義景が松永久秀を調略し、事件から2ヵ月を経た7月28日、覚慶は義輝の旧臣一色藤長・細川藤孝らの手により奈良を脱出し、近江甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)の和田惟政のもとに逃れた。以来覚慶は諸大名に支援を求める書状を送り、同年11月には六角義賢の庇護を受けて野洲郡矢島(現在の滋賀県守山市)まで進出した。翌永禄9年(1566年)2月に還俗して義秋と名乗り(後に義昭)、4月には次期将軍候補の例である従五位下左馬頭に叙任された。
三好三人衆と松永の抗争
こうして一乗院覚慶(義秋)が次期将軍に向けて着々と手を打っていく間、三好家中では分裂が生じていた。事件から半年後の永禄8年11月、河内飯盛山城に入った三好長逸・三好宗渭・石成友通は、若年の当主義継に迫り、覚慶を逃した責任などを追及して松永久秀を失脚させた。そして三好一門の長逸・宗渭に加え久秀に替わって家臣を代表する地位に上った石成とが一体となり、以後家中の実権を掌握する(三好三人衆の成立)。事実上の阿波国主三好長治(実休の子)を補佐する三好康長(義継・長治の大叔父)もこれを支持した。
大和では興福寺衆徒であった筒井氏が戦国大名化していたが、久秀が筒井氏の所領と中世を通じて興福寺が保持してきた大和守護の地位を奪い取った関係から、三人衆は筒井順慶と興福寺に久秀討伐を持ちかけて秘かに手を結んだ。かくして12月に三人衆の軍は大和に侵攻を開始し、筒井氏と共同して久秀を多聞山城(現在の奈良市法蓮町)に包囲した。だが城は強固で松永軍の士気は高く、翌年2月には筒井軍を打ち破った。三好氏家臣を含む畿内の諸城主には久秀に与する者も多かった。久秀は城を息子の久通に任せると5月に摂津野田(現在の大阪市福島区)まで進撃し、義秋を支持する河内の畠山氏と共同して和泉堺において三人衆方と戦ったが、大敗を喫し行方知れずとなった。
四国勢の到来と織田軍の上洛頓挫
阿波の三好長治の家老篠原長房はこの機に乗じて四国勢を動員し、永禄9年(1566年)6月に摂津兵庫津に上陸した。四国勢と三人衆方は8月までに摂津・山城の松永方諸城をほとんど攻略し、9月には摂津の松永方として最後に残った伊丹親興も三人衆に降った。河内の畠山氏も和睦を申し入れたため、松永方は厳しい状況に立たされた。篠原と三人衆は8月28日に河内高屋城に集結し足利義親擁立について評議した。義親はかつての堺公方義維の息子で義輝には従弟にあたり、父子ともに天文初年以来長らく阿波に逼塞していたが、篠原と三人衆が提携したことで次期将軍の可能性が一気に高まった。
そのころ近江矢島の足利義秋は尾張の織田信長の上洛に期待を寄せて美濃の斎藤龍興との和睦を働きかけ、信長もこれに応じて義秋に供奉する意向を示し、上洛計画が具体化していた。しかし、篠原・三人衆の手は近江にも及びつつあり、8月3日には矢島の対岸坂本に出勢してきた三好方を退けた義秋方であったが、近日中の信長出陣を諸方面に伝え参陣を呼びかけていた8月29日、六角氏が三好三人衆に通じ義秋を捕縛する兵を差し向けたため、矢島を脱して若狭に退くこととなった。またこのとき織田軍は美濃に入ったところを斎藤軍に阻まれ翌閏8月8日に退却した。上洛計画は、前提としていた義秋・六角・斎藤・織田の提携が崩れたために破綻したのである。義秋は11月に朝倉義景を頼って越前一乗谷の安養寺に入った。
京都から遠ざかった義秋と入れ替わるように、阿波の義維・義親父子は9月に渡海して摂津越水城に入り、朝廷との交渉を進め、12月7日に摂津富田(現在の大阪府高槻市)の普門寺に入って入京の機会を窺った。義親は12月28日には義秋と対等の従五位下左馬頭に叙任され、翌永禄10年(1567年)正月に義栄と改名する。
東大寺合戦
こうして足利義栄を擁立する篠原長房・三好三人衆側の畿内における優勢が固まったかに見えたが、永禄10年2月16日、三好義継が突如堺を出奔し松永久秀の陣営に迎えられた。『 足利季世記』によれば、義継が若輩であるため何事も三人衆の意向のままで、義栄は三人衆を厚く遇し、篠原・康長・三人衆もまた義栄を尊重しており、義継は総大将でありながら軽んぜられることに憤慨して松永方へ内通したという。三好氏の当主が敵側に奔るという事態に、その代行として阿波の三好長治が畿内に渡ったがやはり若年であったため、長治に仕える康長・篠原と三人衆が集団で指導する体制が取られた。
堺周辺で転戦していたと見られる久秀は義継を伴い4月に信貴山城を経て奈良市街北方の多聞山城に帰城した。これに対して三人衆・筒井連合軍は南方の天満山・大乗院山に陣取り、奈良一帯を舞台に両軍の睨み合いが始まった。5月に石成友通・池田勝正率いる軍勢は東大寺念仏堂・二月堂・大仏殿回廊等に陣を構え、松永軍は同寺戒壇院に拠点を移したが、対峙を続ける間双方とも周辺各所に火を付け、東大寺や興福寺の一部塔頭や般若寺が焼失した。7月23日には戒壇院が炎上し、松永軍はその焼け跡に陣を構えた。10月10日、久秀は大仏殿に拠る連合軍に総攻撃をかけたが、三人衆の陣からの出火で大仏殿は火の手に包まれ、東大寺全域が戦場と化した[注釈 11]。松永軍は筒井・三人衆連合軍の撃退に成功したものの、以後も大和国内をはじめとする畿内各地で戦闘が続いた。
この間、織田信長は美濃攻略に当たっていたが、8月15日に斎藤龍興の居城稲葉山城(岐阜城)を陥れ、さらに北伊勢の攻略にも着手した。大仏殿の戦いの後、信長は大和北部や山城南部の武士に松永父子への加勢を呼びかけ自らも伊勢経由で大和へ進出する構えを見せ、久秀も義昭・信長の上洛を材料に諸方面へ調略を仕掛けていたが、なおも劣勢であった。
義栄将軍宣下
二人の将軍候補の陣営が拮抗して将軍空位が長期化する事態に朝廷は苦慮していた。義栄を擁する篠原長房・三好三人衆は松永久秀らとの抗争が続き、いっぽうで義秋を庇護する朝倉義景も一向一揆対策に追われて上洛どころではなかった。朝廷は双方に対して将軍就任の要件としてとりあえず銭一万疋(百貫)の献金を求めたが、先に応じたのは義栄であった。義栄は一万疋を半分に値切り、永禄11年(1568年)2月に摂津富田において将軍宣下を受けたが、畿内の情勢がなお不安定なため入京は先送りとなり、幕府の再興には至らなかった。在京する幕臣の中に事件に対する反発や義栄への非協力的な動きがあり(特に行政実務を担う奉行衆にこの動きが強く、一部は義昭の生存を知って越前に向かう)、義栄が上洛できる環境にはなかったとする指摘もある。そのため篠原・三人衆側は京都周辺にあった幕臣の所領の安堵と引換に義栄陣営への取り込みを図っていた[10]。
永禄11年の上洛戦
永禄11年(1568年)4月、足利義秋は越前一乗谷において元服し、名を義昭と改めた。しかし、朝倉義景は一向に上洛への動きを示さなかった。頼みとする織田信長に対してはこのころ義栄陣営の三好長逸からも接触が図られていたが、義昭は信長と交渉を重ねてその迎えを取り付け、7月25日に美濃立政寺に移った。8月7日に近江佐和山に入った信長は7日間滞在し、使者を遣わして六角義賢に上洛への協力を求めるが交渉は決裂した。一方で8月17日には三好三人衆も近江を訪れ、義賢と「天下の儀談合」に及んだ。上洛には六角氏との対戦が不可避となった信長は、6万ともいわれる軍勢を率いて9月7日に岐阜を進発し、12日に箕作城、13日に六角氏の本城観音寺城と攻略して予想外の速さで江南を手中に収めた。
いっぽう大和からいったん退いていた三好方は態勢を立て直し、松永久秀を討伐するべく5月に大和侵攻を再開していた。三好康長は松永方重要拠点の信貴山城を包囲して6月29日に開城させ、9月4日には筒井順慶とともに東大寺に攻め寄せる。織田軍が近江に侵攻した後の9月10日に石成友通が坂本に進出したものの翌日には帰還している。また、松永方が織田軍に呼応するのを警戒し、16日に三好宗渭らが奈良の西京へ派遣される。このように松永方との対戦に注力していた三好勢は、兵力を結集して織田軍の進撃を阻止することができず、信長は義昭を奉じて9月26日に山城国に入った。
織田軍はそのまま三好勢の討伐に向かい、勝龍寺城に籠る石成友通を29日に逐い落とす。山崎に布陣していた三好勢は、27日に織田の先鋒が進撃してくる前に退散していた。摂津に入った先鋒は畿内における三好氏の拠点であった芥川山城の周辺を焼き討ちし、三好長逸が城を捨てて落ち延びた後、30日に義昭が入城した。池田城を攻囲された池田勝正は激しく抵抗したが力尽きて降伏、伊丹城の伊丹親興も降伏する一方、越水城の篠原長房、河内高屋城の三好康長、三好宗渭は戦わずに退去した。篠原・三人衆らはすみやかに撤兵したためその勢力は温存され、この後も義昭陣営との抗争が続くことになるが、足利義栄は将軍となりながら上洛を果たさぬまま、この間の9月30日に病死した(義栄の死去日ついては諸説あり、将軍職を解任されたのか死去によって将軍職が空席になったのかは不明である。三好長治に伴われて阿波に下り、10月8日あるいは20日に没したともいう)。
10月4日、摂津芥川山城の義昭のもとに三好義継・松永久秀・池田勝正・畠山氏らが出仕し、彼らと信長が義昭を奉じる体制が成立する。大和に残っていた松永久通は10月8日に筒井城を攻め落とし、筒井順慶を追い出した。さらに大和一国の支配を認められた松永久秀、義昭家臣の細川藤孝・和田惟政、信長家臣の佐久間信盛が率いる軍勢が10日に大和に入り、諸城を攻略していった。松永方は信貴山城も奪還した。
義昭将軍宣下
10月14日、義昭軍は洛外六条の本国寺、織田軍は洛東の清水寺に入った。その2日後、義昭は将軍宣下を受けるためにわずかな供を連れて上京の細川京兆邸に移り、信長も細川被官宅に入る。朝廷は18日に義昭を従四位下・征夷大将軍・参議・左近衛中将に叙任した。義昭は先の義栄将軍宣下の関係者の処分を要求し、後に関白近衛前久と参議高倉永相は大坂本願寺を頼って逃亡し、権中納言勧修寺晴右は蟄居、参議水無瀬親氏は義栄とともに阿波に下った。これに対し、先に越前に下って義昭の元服の加冠役を務めた二条晴良は、義昭の後押しによって次の関白に任じられた[注釈 12][注釈 13]。
10月22日、新将軍義昭は参内し、翌日は五番立の能を催して信長らをねぎらった。信長は26日に岐阜への帰国の途につき、義昭は月末に御座所を下京の本能寺に移した。
本国寺合戦
12月24日、松永久秀も織田信長への礼のため岐阜に下った。すると三好三人衆はこの隙を突いて上洛し、永禄12年(1569年)1月4日、まず将軍の退路を断つため勝軍地蔵山城をはじめ洛東や洛中周辺諸所に放火した。これに対し、義昭は東西2町南北6町の広大な寺域を有し要害化されていた本国寺に籠城する構えを取った。翌日、三人衆は1万余の軍勢(5千とも8千ともいう)で攻め寄せたが、将軍直臣に信長家臣・若狭武田氏家臣を加えた幕府軍2千が必死の防戦をしたため、侵入を阻まれた。この間に将軍の救援として細川藤孝、北河内の三好義継、摂津の池田衆・伊丹衆などが攻め上り、6日に三好勢を三方から攻撃し、本国寺の籠城軍も呼応して打って出た。不利を悟った三好勢は退却を試みるも追いつかれ、桂川河畔で合戦に及んだが敗北した。永禄の変の再現はならなかったのである。急報を受けて岐阜を立った信長や久秀が本国寺に到着した10日には、すでに三人衆は撤退していた。
なお、後年本能寺の変を引き起こす明智光秀も将軍側の一員として戦っており、このころから歴史の表舞台に登場する。
脚注
注釈
- ^ この「永禄の変」の呼称が用いられた早い例としては、近世細川氏の成長過程でかつてともに室町幕府に仕えていた諸家が集まってくる事例として角田藤秀と細川輝経の二人のケースを紹介した福原透の1998年の論文がある[1]。そのむすびの中で 永禄の変で討死した松井新次郎勝之(康之兄)と書いている。
また、高梨真行の2004年の論文は、永禄5年(1562年)3月に当時洛中を支配していた三好氏が畠山氏・根来寺衆徒連合軍に敗れて以来の諸政争を、伊勢氏が関係している古文書を中心に論じているが[2]、その最後(48ページ)でこの事件を 足利義輝の殺害(永禄の変)と記している。
天野忠幸は2012の著書で、近年、「永禄の政変」と称される事件である と述べる。以降これらの呼称を用いる研究者も増えてはいるものの、なお一般化しているとまではいえない。
- ^ 進士晴舎は三好氏・松永氏との取次であり、交渉決裂の責任を取ったとも、彼が自害したことで三好方から交渉決裂・手切とみなされて攻撃が開始されたとも考えられる。
- ^ 上泉信綱にも兵法を学んだとする説もあるが、義輝が信綱に兵法を学んだとする記述は史料上では確認できない。
- ^ この時の「足利家に伝わる数多くの銘刀を床に突き立て、これを取り替えながら敵兵を斬り倒した」という義輝奮戦の記述は江戸後期の『日本外史』のもので、事件に近い時期の史料にはそのような記述はない。義輝は、創作を元にした俗説が広がり「剣豪将軍」と称されているが、実際に剣豪であったわけではなく、免許を皆伝したと言う史料も確認できない。
- ^ ただし、小笠原稙盛には生存説もある(後述)。
- ^ 将軍が「自害」したという記述は、少なくとも『言継卿記』には見られない。「生害」とは単純に「殺された」という意味で、他者に殺害された場合にも自害した場合にも用いられた。ただし、後の時代の信頼性の少々劣る記録になら、松永貞徳の『戴恩記』などの、御所を囲まれて切腹したというものや、『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようにはなる。
- ^ 奉公衆の進士晴舎の書状によれば、この義晴の死は自害によるものであった(『集古文書』)。
- ^ 足利義澄の子である義維は、義稙の養子・後継者となって実兄の義晴に対抗していわゆる「堺政権」を立てた。義維と子の義栄が義稙系将軍家、義晴と子の義輝(および弟の義昭)が義澄系将軍家である。
- ^ 柴によれば、御所巻による政治的要求はかつての観応の擾乱における足利直義失脚、康暦の政変における細川頼之失脚、文正の政変における伊勢貞親失脚などでたびたび発生していて珍しいものではない。ただ、フロイスの記述によれば、三好方の岩成友通が進士晴舎に突き付けた要求には将軍の奥方(正室の近衛氏か)と進士晴舎の娘(小侍従局)、「大身(の側近)」の殺害が含まれており、それが事実ならば義輝にとっては受け入れ難い内容を含むものであり、その要求を拒絶するために実力排除を試みた結果とみる。
- ^ 山田邦明・柴裕之に近い立場(御所巻における政治的要求の取次を進士晴舎が拒否して自害したことで「手切れ」とみなされたとする)を取る木下昌規は、最初から義輝を殺害する意図があるならば直ちに攻撃すれば良いのに政治的交渉を行おうとしたことの説明がつかない、一方で政治的な要求がフロイスの記述通りであれば処刑を要求した「妻妾」「大身(の側近)」には三好・松永側に対する交渉窓口である進士晴舎・小侍従局父娘を含めていた可能性が高くて初めから交渉が成り立たない、という問題点を指摘している。
- ^ 東大寺は二月堂・法華堂・正倉院・南大門・鐘楼・転害門・念仏堂などが焼け残り、被害そのものは治承・寿永の乱(源平合戦)の時に行われた平重衡の南都焼討よりも少なかったが、類焼によって炎上した前回とは違い、東大寺そのものが戦場になり、なおかつ大仏殿に直接火がかけられたと言う事実は内外に衝撃を与えた。更にこの時の火災で打撃を受けた大仏そのものも後日首が落下してしまい、修理費用も無くそのまま放置され、大仏と大仏殿の両方の再建が行われたのは、120年以上も後の1680~1700年代(貞享・元禄年間)のことであった。
- ^ これまで、公家社会では近衛家が足利義晴・義輝父子と婚姻を結んで外戚の地位を獲得し、九条家や二条家が足利義維・義栄父子を支援していた。このため、義晴や義輝が京都を追われた際には近衛家も随従するのが恒例であった。ところが、近衛前久は父稙家の病気の影響か、稙家の弟義俊の計らいで奈良を脱出した義昭と行動を共にせず義栄を擁する方向に転換し、またこれを受けて九条稙通や二条晴良は逆に義昭を支援するという、摂関家と将軍家の関係の変動が起こった。[18]
- ^ なお、九条家・二条家とともに義栄を支持してきたとみられる本願寺(法主である大谷家は元々は九条家の家司的存在であったとされる[19])は、義栄支持の立場を変えることなく、義昭に追放された近衛前久を受け入れ、従来二条家に依頼してきた法主の猶父も近衛家に切り替えている。義昭・信長と前久・本願寺との対立は後の石山合戦の一因となるが、その後信長との関係が悪化した義昭は本願寺と和解し、いわゆる信長包囲網を形成するも信長に敗れ、室町幕府は滅亡することになる。
出典
- ^ 福原透「松井家研究余録 角田因幡守入道宗伊・細川陸奥守入道宗賢者の事績について」『熊本史学』74,75号、1998年。 /所収:木下昌規 編『足利義輝』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 高梨真行「永禄政変後の室町幕府政所と摂津晴門・伊勢貞興の動向 ―東京国立博物館所蔵「古文書」所収三淵藤英書状を題材にして」『Museum』592号、2004年10月。 /所収:木下昌規 編『足利義輝』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 木下聡「『後鑑』所載「伊勢貞助記」について」『戦国史研究』57号、2009年。 /所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 『言継卿記』
- ^ 歴史評論, 第 639~644 号
- ^ a b 木下昌規 著「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」、天野忠幸; 片山正彦; 古野貢 ほか 編『論文集二 戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会、2012年。 /所収:木下昌規『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2。
- ^ 「興福寺大般若経奥書」天文20年5月11日条。ただし、1年後の記述では河内の有力者だった萱振賢継の野心のための謀反と見られており、義輝の関与は推測されていない。
- ^ 山田康弘「将軍義輝殺害事件に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年。 /所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 山田邦明『戦国の活力』小学館、2008年、127頁。
- ^ 柴裕之「永禄の政変の一様相」『戦国史研究』72号、2016年。 /所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
- ^ 水野智之「足利義晴~義昭における摂関家・本願寺と将軍・大名」『織豊期研究』第12号、2010年。 /所収:久野雅司 編『足利義昭』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2。
- ^ 辻川達雄『蓮如と七人の息子』誠文堂新光社、1996年。ISBN 978-4-416-89620-4。
参考文献
関連項目