武藤 嘉門(むとう かもん、旧姓・辻[2]、1870年10月27日(明治3年10月3日[3]) - 1963年(昭和38年)8月11日[1])は日本の政治家・実業家。元岐阜県知事・衆議院議員、岐阜県名誉県民[1]。岐阜商工会議所会頭[4]。
元衆議院議員の武藤嘉一は長男。衆議院議員を務め外務大臣、総務庁長官などを歴任した武藤嘉文は孫にあたる。曾孫は衆議院議員の武藤容治。
来歴
岐阜県山県郡千疋村(現:関市千疋)出身。辻丈助の二男[2][4]。岐阜県岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て、東京法学院(現:中央大学)を中退[1]。
その後、稲葉郡会・岐阜県会の議員をつとめる一方、家業の酒造業(『菊川』)を経営するほか、食糧営団・電力会社・地方鉄道・地方新聞(岐阜日日新聞、岐阜合同新聞)の会社などを経営して経済界の発展のために数数の業績を残した。1918年の衆議院議員補欠選挙に初当選してから3期衆議院議員を務め、国政でも活動した。
1947年の新地方自治制度の施行に伴い、岐阜県知事選挙で官選知事の桃井直美を破り、公選された。
終戦後の混乱した中、高齢にもかかわらず日夜職務に精励したため県民に慕われ、1958年まで岐阜県知事を日本で最初に連続3期務め、岐阜県の発展に力を尽くした。この間知事としての給料を辞退して模範を示し、常に健全な財政を維持した[5]。退任時は88歳であるが、88歳の都道府県知事は歴代最高齢である。
業績面では、特に土木事業において全国に先がけて永久橋の整備に着手し、多大の成果を収めたことや山林事業において林務部を新設して、国土緑化、治山治水を行い、1957年4月には、昭和天皇、香淳皇后の行幸啓を仰いで全国植樹祭を挙行した。
のちに、長年にわたる地方自治並びに地方産業の振興に尽くした功により藍綬褒章を授与され、岐阜県名誉県民の称号が授与された。
人物
住所は岐阜県稲葉郡鵜沼町(現各務原市)[2][4]。
略歴
家族・親族
- 武藤家
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。