西田 忠之(にしだ ただゆき、1840年(天保10年11月)[1] - 1899年(明治32年)4月6日[1])は、明治時代の裁判官、政治家。衆議院議員(1期)。
経歴
滋賀県蒲生郡竜王町出身[2]。漢学と書法を学ぶ。1868年に刑法官書記、1876年大審院所属、1881年判事となり、1894年に退官した[2]。刑法官書記、補亡司判事、鞠獄司判事、徴士補亡司知事、逮部権正、太政官八等出仕、大審院大属、判事補、陸軍裁判所少主理、治安裁判所判事、北条区裁判所監督判事などを歴任した[1]。
1894年の第4回衆議院議員総選挙において滋賀3区から進歩党で立候補して当選[2][3]。立憲改進党の議員として[2]、衆議院議員を1期務めた。1898年の第5回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。翌1899年4月に死去した。
代議士になった後は京都に移住し、議員活動をしながら趣味の謡曲をたしなむなど、穏やかな生活を送ったという[2]。死後、所蔵文書や資料は法政大学に寄贈され、「西田文庫」として収められている[2]。
脚注
参考文献
- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。