松殿家(まつどのけ)は、摂関家として創設された公家のひとつ。藤原氏北家嫡流の藤原忠通の次男・松殿基房が祖で、家名の由来は京都に松殿と呼ばれる屋敷を構えたことによる。戦国時代に絶家した。
本来であれば五摂家の近衛家・九条家に並ぶ家格の家であるが、藤原北家嫡流でありながら摂関は初代とその子の2人のみ、その後は大体が参議、出世しても権大納言がやっとであった。
初代である松殿基房が高倉天皇の関白だった治承3年(1179年)、後白河法皇と平清盛の対立が頂点に達し、ついに清盛が法皇の幽閉と高官達の追放を断行、それに巻き込まれた基房も大宰権帥へと左遷となり、失意の内に36歳で出家した。また基房は生母の父が太政大臣であるからという理由で、長男の藤原隆忠や次男の家房ではなく、わずか8歳の三男・松殿師家を後継者にした。
その後、木曾義仲が都に入ると基房は娘伊子を義仲の側室に差し出す[注釈 2]。その甲斐があって治承7年(1183年)師家は義仲の支持を背景にわずか12歳で摂政・内大臣・藤氏長者に就任するが、数か月後には義仲が源義経に討たれ、師家は解任された。その後、半世紀近くも師家は官職に就くことができずに失意の日々を過ごした(ちなみに師家は甥にあたる道元を養子に迎えようとして失敗している)[要出典]。この間に隆忠は弟である師家を官職の上で追い抜き、承元5年/建暦元年(1211年)まで左大臣を務めている。
その後、師家の弟や息子の代には大納言や権大納言を輩出した。特に師家の弟忠房は、寛元4年(1246年)に九条道家・一条実経親子が失脚した時に次の摂関の候補者に挙げられた経緯[1]があり、松殿家が摂関家として存続する可能性も存在した[2]。だが、後継者や所領を巡る師家と忠房の確執、師家の嫡男・基嗣の女院女房拉致による失脚事件の影響などもあり、基房 - 師家を継ぐ摂関はついに登場しなかった[3]。次の世代には位こそは正二位に進むことはできても、官職は権中納言・参議がやっととなる。そして南北朝時代の松殿忠嗣(基房の玄孫)は二条良基の側近として活躍し、暦応3年(1340年)に44歳で従三位になると、6年後に参議、さらに延文2年(1357年)には権大納言に昇っている。だが、松殿家は後に南朝側へ離反し、南北朝合一後は再び衰退へ向かう。
その後、永正5年(1508年)に忠嗣の玄孫にあたる松殿忠顕が従三位に叙せられて後に正三位参議となり、その子家豊が従五位上に叙された。その後の系譜は途絶えており、戦国時代中期には絶家したものと考えられている。
江戸時代に入ると松殿家を再興する動きがあった。寛永年間、九条幸家の三男道基が新たに朝廷より所領1000石を下賜(かし)されて松殿家を復興し、寛永11年(1634年)には幕府も再興の許可を与えた。また寛永18年(1641年)には道基一代は摂家としての待遇を与えることが内約されており、寛永19年(1642年)に従三位に叙されたが、正保3年(1646年)に嗣子無く薨去したため、再び断絶した。
また万治3年(1660年)には、八条宮智仁親王の皇子(広幡忠幸、後の清華家広幡家の始祖。)が臣籍降下する際、松殿家の再興も案の一つとして討議されている。
さらに下って明和2年(1765年)には、九条尚実の次男忠孝が九条家の分家として、清華家待遇となる松殿家を創設したが、これも明和5年(1768年)に嗣子無く没した。
『山階宮三代』の慶応4年(1868年)1月18日条によれば、新政府総裁有栖川宮熾仁親王のもとに九条尚忠五男忠善(幼少にして随心院門跡増護の付弟として入寺し「増縁」という僧になっていた)を還俗させて彼を当主とした松殿家を再興させる建議があったという[4]。しかしこの段階では実現せず、明治5年(1872年)に増縁は還俗して九条忠善となるも、まもなく旧・岡山藩家老家だった伊木家の養子に入って伊木家を相続した。その後1888年(明治21年)に忠善は伊木家を離籍して九条家に復籍し、1889年(明治22年)に至って松殿家ではなく鎌倉時代に存在した九条家の分家の公家だった鶴殿家(月輪家)の方を再興して華族の男爵家に列せられることとなった[4]。