松原 千明(まつばら ちあき、1958年〈昭和33年〉2月18日 - 2022年〈令和4年〉10月8日[1])は、日本の女優、タレント。身長162cm[2]。ファッションモデルのすみれは長女にあたる[2]。
京都府京都市右京区太秦出身[3]。三男三女の末っ子[2]。時代劇俳優の原健策を父に、宝塚歌劇団卒業生(24期生)の乙女松子を母に持つ[2][3]。父の原が広島出身のため、松原の実家は京都で広島風お好み焼き屋「千明」を経営し[2][3][4]、千明も小さなときから、芸能界にデビューするまでお店を手伝っていた[3]。子どもの頃は太秦(東映京都撮影所)が遊び場だった[2]。
京都府立嵯峨野高等学校卒業、平安女学院短期大学キリスト教科卒業(1978年)[2][3]。
10代の頃から地元関西で芸能活動を行い、短大卒業後、信用金庫のOLをしていた[2]。
1980年、カネボウ化粧品のキャンペーンガール「カネボウレディ'80」応募者2万5700人から選ばれブレイクする[2][3]。この年のカネボウキャンペーンは「女の時代・80年代」を代表する女性として、「健康的な美しさとファッションセンスを兼ね備え、やさしく、社会的知性に加え、国際的視野を持つ」が条件だったが、水着より知性のある受け答えで点数を稼ぎ、1位となった[3]、松原は「将来はアメリカで暮らしてみたい。女性がとも働きしているところを見たいんです。日本だと家へ閉じこもりがちだから。だけど、外へ出て独りで暮らす度胸はあんまりないです」などと話した[3]。
副賞の一部として掲げられた「東宝映画への出演」は『地震列島』の女性カメラマン役であった。以後はテレビドラマを中心に活動し、ラジオ番組のパーソナリティも担当。
1988年からは、朝日放送のテレビ番組『探偵!ナイトスクープ』で初代秘書役を1年間務めた。
ナイトスクープの仕事を開始した同年に当時トレンディドラマを中心に活躍していた俳優の石田純一と結婚[5]。その後、松原は芸能活動を縮小し1990年に娘(後のすみれ)を1人もうけたが1999年に離婚。石田の不貞行為などが原因で後に娘とともにハワイへ移住。
離婚直後は一時芸能活動を再開し、同年6月にはエッセイ『リ・ボーン―ハワイの光のなかで』を出版するなどしたが、娘の英語の家庭教師だったハワイ在住の白人男性との再婚・妊娠をきっかけに再び芸能活動を休止、2000年に息子を1人出産し2児の母となった。
2006年には松原の娘がすみれとしてモデル活動を開始し、また松原も毎日放送(TBS系)『知っとこ!』2006年9月23日放送分へのゲスト出演を機に徐々に芸能活動を再開している。同時にフリーに転向せずかつて所属していた東宝芸能に所属・復帰した。再婚相手の白人男性とはその後、男性が経済面で松原を頼り始めたことや互いの性格の不一致などを理由に2008年暮れから離婚協議を進め、2009年に正式に離婚を表明した[6][7]。
2022年10月8日、ハワイの自宅で死去したことが同年11月16日に小学館『女性セブン』の記事より報じられた[1][8]。同日、すみれの所属事務所もホームページ上で公式に訃報を発表した[9]。64歳没。
松本人志(3代目)
増田紗織(4代目)
石田靖 - 間寛平 - 田村裕 - 竹山隆範 - 真栄田賢 - せいや - 桂二葉 - 永見大吾
ルー大柴 - 山田五郎 - 林裕人 - 石塚英彦 - 勝俣州和 - 谷均史(医学担当) - 山田善春(物理担当)
上岡龍太郎(初代) - 西田敏行(2代目)
松原千明(初代) - 岡部まり(2代目) - 松尾依里佳(3代目)
清水圭 - ジミー大西 - 田中康江 - 嘉門達夫 - 越前屋俵太 - 立原啓裕 - 桂文福 - 北野誠 - 槍魔栗三助 - 上海太郎 - トミーズ雅 - ぜんじろう - 久本雅美 - 地獄じじい - 山本大介 - みやなおこ - 安田大サーカス - 桂小枝 - 長原成樹 - 松村邦洋 - たむらけんじ - 澤部佑 - 橋本直 - ゆりやんレトリィバァ
横山ノック(初代最高顧問→特別顧問) - キダ・タロー(2代目最高顧問) - 過去の顧問一覧
ハートスランプ二人ぼっち
松本修 - 百田尚樹 - 円広志 - 黒木華 - なかやまきんに君 - 養老の星☆幸ちゃん - 島野りーみん - 数原魁
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