東城 鉦太郎(とうじょう しょうたろう、1865年4月6日(元治2年3月11日[1]) - 1929年(昭和4年)6月30日[2])は、明治から昭和にかけての日本の画家で、主に戦争画を得意としていた。日露戦争での日本海海戦の様子を描いた連作が特に有名(三笠艦橋の図についても本項で述べる)。
略歴
三笠艦橋の図
日本海海戦においてZ旗を掲揚した直後の連合艦隊旗艦三笠艦橋の情景を描いたもので、左上のZ旗は降ろされている時のものである。
描かれている人物は、右から伝令(伝声管に向かっている人物)の玉木信助少尉候補生(三笠の佐世保港内での爆沈事故で殉職、最終階級は海軍少尉)、同じく伝令の三浦忠一等信号兵(その後不明)、参謀の秋山真之中佐(後に海軍中将)、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将(後に元帥海軍大将)、測的係(測距儀を覗き軍帽だけ映っている人物)の長谷川清少尉(後に海軍大将、台湾総督)、参謀長の加藤友三郎少将(後に元帥海軍大将、海軍大臣、内閣総理大臣)、伝令の野口新蔵四等水兵(後に故郷に帰農)、砲術長の安保清種少佐(後に海軍大将、海軍大臣)、艦長の伊地知彦次郎大佐(後に海軍中将、練習艦隊司令官)、砲術長附(双眼鏡で敵艦隊を覗いている人物)の今村信次郎中尉(後に海軍中将、第三艦隊司令長官)、航海長の布目満造中佐(後に海軍中将)、参謀(階段を登っている人物)の飯田久恒少佐(後に海軍中将)、航海士(海図を前にしゃがんでいる人物)の枝原百合一少尉(後に海軍中将)、伝令の山崎厳亀少尉候補生(後に海軍大佐)となっている。
現在知られているこの絵は関東大震災で一度焼失した後に描き直されたもので、煙突の煙やハンモックの縛り方などいくつか違いがあるが、描かれている人物は変わっていない[3]。近年、旧作では秋山真之は描かれていなかったとする著作がいくつかあるが、菊田愼典『坂の上の雲の真実』の間違った記述を確認せず採用したものである。いわゆる敵前大回頭の前後に秋山が艦橋を降りていたという証言はあるが、この場面はそれより数分前である。
画家の内田巌は本作を「明治戦争画の傑作」と評し、「当時の単なる記録としてばかりでなく、『皇国の興廃この一戦にあり』というたくましい精神を強く我々に与えるものである」と述べた[4]。
その他の作品
脚注
- ^ 官房日英博覧会出品に関する嘱託任命及英国へ派遣の件(陸軍省弐大日記 明治43年乾の上 貳大日記1月、明治43年1月17日) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C06084887900 自筆履歴書より
- ^ 石渡幸二「海戦画家 東城鉦太郎を偲んで」上 海人社『世界の艦船』1996年1月号 No.505 p209
- ^ 東郷神社・東郷会『図説 東郷平八郎』p124~p125 では両者の写真を載せ比較検討している。
- ^ 内田巌『絵画の美 油絵篇』冨山房、1944年、160ページ。括弧内は現代の字体・仮名遣いに修正した上で引用。
- ^ a b 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)編集・発行 『第20回企画展 海軍記録画 ー絵画によりたどる海軍の歴史ー』 2012年3月、pp.5-7。
- ^ 秋山好古直筆辞職願を公開 (読売新聞愛知版、2010年1月5日付)
- ^ 石渡幸二「海戦画家 東城鉦太郎を偲んで」上 海人社『世界の艦船』1996年1月号 No.505、pp.113,208。
参考文献
- 石渡幸二「編集余録 海戦画家 東城鉦太郎を偲んで」上、中、下(海人社 『世界の艦船』1996年1月号 No.505 pp.208-209、1996年2月号 No.506 pp.168-169、1996年3月号 No.508 pp.156-157)
- 向後恵里子 「東城鉦太郎と日露戦争について」(『鹿島美術研究年報別冊』第24号、pp.408-421、2006年)
- 向後恵里子 「東城鉦太郎―日露戦争の画家」(明治美術学会編集 『近代画説』第17号、pp.74-101 2008年)ISBN 978-4-938740-72-6
外部リンク
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