本山 漸(もとやま ぜん[1]、1842年9月27日〈天保13年8月23日〉 – 1920年〈大正9年〉5月4日) は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将[2]、静岡県出身[2]。海城中学校・高等学校・商議員・議定員。
海軍繰練所で学び、累進して1872年(明治5年)筑波の艦長となる。のちに2度同艦艦長を務める。1878年(明治11年)海軍兵学校教務課長となり、海軍兵学校次長を経て1880年(明治13年)海軍兵学校 校長に就任する。1882年(明治15年)には、海軍大佐に昇進し、軍務局法規課長、軍務局法規課長、海軍大学校次長兼教頭、海軍技術会議議員、等の職を歴任した。1890年(明治23年)海軍少将任官と同時に再び海軍兵学校校長に補される。同職を3年ほど勤め1893年(明治26年)休職を経て予備役となり、1900年(明治33年)後備役編入となった。