平野神社(ひらのじんじゃ)は、京都市北区平野宮本町にある神社。式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「八重桜」[1]。
京都市北部、平安京大内裏(平安宮)から北方の平野の地に鎮座する神社である。平安京遷都頃まで創建が遡るとされる神社で、近年の研究によると、元々は桓武天皇生母の高野新笠の祖神(桓武天皇外戚神)として平城京に祀られた神祠であったが、それが平安京遷都に伴って大内裏近くに移し祀られたことに始まると推測されている[2]。古代には皇太子守護の性格を持ち[2]、平安時代には例祭「平野祭」において皇太子自らにより奉幣が行われた。また、多くの臣籍降下氏族から氏神として歴史的に崇敬された神社としても知られる。
現在の本殿は4殿2棟からなり、いずれも「平野造」とも称される独特の形式の造りで、重要文化財に指定されている。そのほかに拝殿・中門・南門・摂社縣神社は、京都府から文化財指定・登録を受けている。境内は桜の名所として知られ、夜桜の様子は「平野の夜桜」と称されることで知られる。
現在の祭神は次の4柱[3]。一番北の第一殿から順に1殿1柱ずつ祀られている[3]。
平野神社の祭神について、『延喜式』神名帳では「平野祭神四社」として、4座から成る旨が記載されている。国史によれば、それら4座の神々は今木神・久度神・古開神(古関神)・比売神という独特な神々である。これらのうち今木神が主神になる[4]。『貞観式』(『本朝月令』所引)[原 1]によれば、平野社の祭神は当初は今木神・久度神・古開神の3神であったが、のちに相殿に比売神が加えられ4神になったという[5][6]。「平野神」の呼称自体は、元々は主神の今木神のみを指す意味であったが、のちに祭神4神の総称としての使用にも変化している[6]。
祭神は、古代には皇太子守護の性格を持ったほか[2]、源氏・平氏・高階氏・大江氏のほか中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏らから氏神として崇敬されており、「八姓の祖神」と称されたという[7]。
祭神の元々の神格・由来に関しては古来諸説があり、大別すると桓武天皇生母の高野新笠の祖神とする説、竈神とする説、今木・久度・古開・比売神をそれぞれ源氏・平氏・高階氏・大江氏の祖神とする説がある[8](詳細は考証節を参照)。
祭神のうち主神の今木神は、元々は高野新笠(桓武天皇生母)の祖神として大和国において祀られた神と見られ、延暦元年(782年)[原 2]時点では平城京の田村後宮[注 1]で祀られていたことが知られる。桓武天皇による平安京遷都に伴って、この今木神が大内裏近くに移し祀られたのが平野神社の創建になるとされる[9][8][9](その他の各神の経緯については考証節を参照)。
平野神社の創建について、『一代要記』では延暦13年(794年)、『諸神記』では延暦4年(785年)、『江家次第』では延暦年中、『本朝月令』では延暦年中、『伊呂波字類抄』では延暦年中と記載する[5][10][6]。公式の文献としては、貞観14年(872年)の太政官符[原 3]では延暦年中の創建の記載が、次いで延暦20年(801年)の官符[原 4]では平野祭の記載があり、やはり延暦頃の鎮座が確認される[5][8]。いずれにしても、一般的には、平安京遷都から遠くない時期に創建されたものと考えられている[8][11][12]。
国史では、田村後宮の今木神が延暦元年(782年)[原 2]に従四位上の神階を奉叙された記事が初見で、平安京遷都以後各神への神階奉叙の記事が散見される[6]。神階は830年代から急速に上昇し[13]、最終的な神階として貞観5年(863年)に久度・古開神は正三位、比売神は従四位上に昇り、貞観6年(864年)に今木神は正一位の極位に達した[6]。以上の記事のうちでは、平野社を「平野神宮」とする表現[原 5]も見られる[3]。また『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒[原 6]には「平野 十戸山城国」として、同年における神封の存在が記されている[14]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、山城国葛野郡に「平野祭神四社 並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている[6]。『二十二社註式』によれば、平安時代中期には二十二社の1つとして上七社の5番目に列している[10]。この時期には、平野神社の例祭である平野祭では皇太子からの奉幣を受けるという特別な位置づけに置かれたほか、臨時祭に際しても勅祭に預かっていた[6]。
平野神社は古くは平氏・源氏・高階氏・清原氏・中原氏・大江氏・菅原氏・秋篠氏といった臣籍降下氏族・土師氏系氏族から氏神として崇敬され[6]、平氏とは特に強い結びつきにあったという[7]。その後天元4年(981年)[原 7]には円融天皇の行幸があり、以後も天皇の行幸が度々行われた[6]。なおこの円融天皇行幸の記事によると、平野社の神宮寺としては「施無畏寺」があったという[6]。
中世以降は荒廃したが[14]、近世に入り寛永年間(1624年 - 1644年)には西洞院時慶によって再興が図られ、現在の本殿が造営された[6]。近世の社領は100石であった[6]。
明治維新後、1871年(明治4年)5月に近代社格制度において官幣大社に列した[8]。太平洋戦争後の1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
現在の本殿は「比翼春日造」とも「平野造」とも称される独特の形式であるが、この形式は寛永年間(1624年-1644年)の再建以来になる。文書・絵図から推定されるかつての形式は次の通り[16]。
平野神社の例祭は、古来「平野祭(ひらののまつり[21])」として知られる。祭は古くは1年に2度、4月と11月の上の申日に行われたといい[21]、『延喜式』[原 15]では小祀とする[21]。祭は皇太子が奉幣する決まりであり[6]、皇太子が諸親王・諸王を率いて参詣して祝詞を奏上、次いで特に久度神・古開神の前に山・海の幸を献じて朝野の守護を祈願したという[21]。その様子は『江家次第』に詳述されている[10]。現在では11月の祭は廃れ、例祭は4月2日の年1回のみ行われている[21]。
また寛和元年(985年)4月10日[原 16]には初めて臨時祭が行われたが[10]、この臨時祭も勅祭であった[6]。この祭は現在「桜祭」として伝わっており、平野社の桜にまつわる花山天皇陵の参詣と神幸祭を行う[22][10]。
関係人物略系図(数字は天皇代数)
前述のように平野社の祭神に関しては古来諸説があり、高野新笠(桓武天皇生母)の祖神とする説、竈神とする説、今木・久度・古開・比売神をそれぞれ源氏・平氏・高階氏・大江氏の祖神とする説等がある[8]。今日の文献では、特に1番目の高野新笠の父方・母方の両祖神(桓武天皇の外戚神)とする説が多く取り上げられる[25][7][6][14][10][8][2]。歴史的な経緯を考えると、3番目の氏神説は、後世に下ってから比定されたものになる[10]。個々の神々に関する考証は次の通り。
—『袋草紙』
以上のように、今木神・久度神・古開神はいずれも渡来系の信仰に淵源を持つと考えられているが、平安時代中頃には「皇大御神」「皇御神」とも呼称され皇室の守護神として信仰された[25]。また11世紀末頃から平野神を八姓の祖神とする信仰も見られるようになり、『二十二社註式』には、
と記されている[28]。これらのうち中原氏自体の成立が仁寿元年(851年)であるため、伝承はそれ以降の成立になる。加えて『延喜式』で平野祭参加氏族として挙げられていたはずの和氏が含まれていないことから、和氏没落後の11世紀頃の概念とされる[28]。以上のうち源氏・平氏・高階氏・中原氏は皇別であることに、大江氏・菅原氏・秋篠氏は高野新笠母方の土師氏系であることに由来すると見られている[28]。
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原典
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