川本 耕次(かわもと こうじ、1953年〈昭和28年〉5月3日[4] - 2022年〈令和4年〉12月26日[5][6])は、元みのり書房、アリス出版、群雄社出版の漫画編集者、官能小説家、カメラマン、ライター。批評集団『迷宮』メンバー。
伝説的自販機本『少女アリス』2代目編集長。三流SF漫画誌『Peke』編集長。『ロリコンHOUSE』監修者。後に実業家、ブロガー、アダルトメディア研究家に転身。WEBサイト『ネットゲリラ』管理人[7]。三流劇画ブーム・ロリコンブームの仕掛け人といわれる[8][9]。
座右の銘は「ネットゲリラは潜水艦戦である。潜水艦戦に前線はない。自分に有利な時と場所で戦闘を開始する」。
静岡県三島市出身。大学在学中から貸本劇画を研究していた縁で米沢嘉博や長谷川秀樹らと出会い、コミックマーケットの創設母体となった批評集団「迷宮」の集会に出入りする[3][10]。以後、コミックマーケット準備会の中核スタッフとして活動しながら、迷宮の機関誌『漫画新批評大系』に「三流劇画ミニマップ」と題した記事を全国三流劇画共闘会議名義で寄稿し、これが三流劇画ブームの直接的なきっかけとなった[11][12][13]。
後に川本は三流劇画ブームを次のように述懐・総括している。
たった一人で「全国三流劇画共斗会議」を名乗るなんて人騒がせにもほどがあるという意見もあるだろうが、そのありもしない「全三共」の幻影にみんなが踊らされて論争がまきおこったんだから、トラブルメーカーを自認する僕としては満足だ[14]。
三流劇画ブームというのが何かというと、1977年〜78年頃なんだが『漫画大快楽』『漫画エロジェニカ』『劇画アリス』といった、漫画・劇画の世界でも最底辺だった雑誌をおいらが持ちあげて騒いで、最初は個人誌でやってたんだが、それが『漫画新批評大系』という、当時でもかなりの大部数が出ていたコミケ系の漫画評論同人誌につながり、そこから関西で出ていた『プレイガイドジャーナル』という情報誌で座談会が開かれるに至り、しまいには『別冊新評』という商業総合誌で特集までやったわけだ。まぁ、三流劇画ブームなんてぇのは実際には中身はあまりなくて、全共闘崩れみたいなアジテーションばかりが賑やかだったんだが、今にして思うと、あの時代を象徴するようなムーブメントではあったわけです[15]。
その後、三流劇画の取材で訪問したみのり書房に入社して1977年10月から『官能劇画』の編集者となる[3]。1978年8月には『月刊OUT』で初の吾妻ひでお特集である「吾妻ひでおのメロウな世界」を企画担当し[16]、翌9月から『月刊コミックアゲイン』の前身となる、先駆的なニューウェーブ漫画誌『Peke』を創刊する[17]。同誌では吾妻にSFパロディ『どーでもいんなーすぺーす』(吾妻の代表作『ななこSOS』の原型となった)を描かせたほか、みのり書房の編集部に出入りしていた無名時代の内山亜紀(ロリコン漫画を初めて描かせる)とさべあのまをデビューさせ[9]、大学時代からの知人であった怪奇漫画家の日野日出志を復活させる[18][19]。
同誌廃刊後は米沢嘉博の仲介[20]で1979年春から自販機本専門のアリス出版に移籍、合併アリスでは第五編集部編集長に就任する[2][21][22]。入社当初はレズ雑誌『ガール&ガール』を編集していたが[23]、同年初冬にはロリコンブームの火付け役[3]となった伝説的自販機本『少女アリス』の2代目編集長となる[24]。同誌ではビニ本界の伝説的アイドルであった寺山久美(寺山修司主宰のアングラ劇団「天井桟敷」出身の文学少女)をモデルに新潟県上越市で写真撮影を敢行したほか[25]、コミケットで日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』を発表していた吾妻ひでおに美少女漫画を依頼して「純文学シリーズ」を描かせる(後に奇想天外社から『陽射し』としてB5判ハードカバーで単行本化された)[8]。この連作は叙情的に描かれた美少女のかわいさやエロティシズムを明確にテーマにした全8編の作品群で「ロリコン漫画」(後の美少女コミック、いわゆる萌え系エロ)に直結する最重要作品群とみなされている[26]。後に吾妻は川本について「私の転機ともいえる作品を描く時に現れる幸運を運ぶ人」と『失踪日記』で語っていたほか[27]、川本自身も「毎回通って、時には徹夜にもつきあって、原稿をいただいた時の感激は忘れません。時代を変える作品だと、あの頃から確信していました」と述懐している[28]。
ちなみに第2次ロリコンブームの中心人物であった斉田石也は、川本が編集を手がけた『少女アリス』について次のように評価している[29]。
厳密に言えば、本物の少女は登場していないものの、当時、娘の制服を借りて来たのか、と張り倒したくなるようなババアがセーラー服姿でニカッと笑っているのが普通でさえあった自販機本業界にあって、おそらく本物の十代の少女が登場する数少ない総合グラフ誌だった。この『少女アリス』の編集の中心的人物こそ誰あろう川本耕次氏なのだ。当時は編集者、カメラマン、ライター等々、一人で何役もこなしていたと聞いている。当時の『少女アリス』に掲載された女子高生の告白物語などは、全てノンフィクションだと信じていた。ところが、当時、その文章の大半を川本氏と青葉伊賀丸氏は捏造していたと聞き、かなりのショックを受けた。もちろん信じていたのにィという恨み節もあるが、それ以上に、あれだけのサイクルであれだけの量の文章を、しかも、専任ライターではなく様々な仕事をこなしながら書き綴っていたことがショックだったのだ。そして『少女アリス』を30号近くまで継続させた川本氏のパワーが、後にロリコンブームの布石になったことは、いまさら説明を必要としないだろう。『少女アリス』から『ありす』そして『アリス倶楽部』さらに『ロリコンハウス〜ロリくらぶ』を経て『アリスクラブ』まで、常に専門誌に少なからず影響を与えている氏の存在こそ、当時のパワーの延長と言える。
1980年、アリス出版から分派した総合出版社「群雄社出版」に転職し、官能小説家・エディター・カメラマンとして活動する。1983年2月には、同社の官能小説レーベル「シガレットロマンス」から『思春期症候群』を上梓、以後わずか半年強で3冊のロリータ官能小説を同社から上梓した。一方、編集者としては自販機本時代や「迷宮」の人脈を総動員した『街には女の子たちがいっぱい』『ロリコン大全集』『少女体験』『アリス倶楽部』などの伝説的ロリコンムックを手がける(このうち一部は、川本が『ふゅーじょんぷろだくと』から引き抜いた『漫画ブリッコ』編集者の小形克宏が編集作業を手伝っている)。1983年6月には、ロリータアイドル・山添みづきのデビュー写真集となった『十二歳の砂時計』(近藤昌良撮影)を企画出版するなどプロデューサーとしての活動も開始する[30]。さらに定期刊行物としてビニ本ルート用のA5判ムック『少女愛専門誌・ありす』(群雄新社→白熊書房)を1982年11月に創刊し、翌1983年7月まで全3号を刊行した。最終的に群雄社の分室「白熊書房」の発行責任者となるも、1983年末頃までに群雄社は倒産。以後、フリーとなる。
1984年からは読み物中心のロリータ総合誌『ロリコンHOUSE』(三和出版)を創刊号から監修する(初代カバーガールは川本がプロデュースした山添みづきが務めた)。なお川本は同誌において、女子中高生が女性ホルモンの関係で思春期の一時的に太っている状態を指す「処女太り」という造語を提唱し、広く認知された概念となる[31][32]。一方でアンティーク少女・少年写真のコレクターとしてポストカードコレクション写真集『セピア色の少女たち』(シティ出版)の監修も手がけるなど叙情的な美意識も垣間見せた[33]。
1989年の『ロリくらぶ』廃刊後も『アリス・クラブ』(白夜書房→コアマガジン)などに官能小説を連載していたが[34]、ほどなくエロ本業界の第一線から退いて東南アジアを放浪し[35]、この時の経験を活かしてエスニック雑貨屋「えすの屋」を1993年に開店する(伊豆高原駅ビルなどにも数店をかまえた)。この時期は「やまだひろなが」名義で『アジア雑貨屋さんの仕入れ術』(情報センター出版局)、『面白いほどよくわかるタイ裏ワザの旅』(海竜社)、『史上最強のタイみやげ』(旅行人)などの関連書籍を出版している。
晩年は伊豆半島中北端の衛生業界最大手企業(静岡県三島市および伊豆の国市で環境浄化や水道設備などを手掛ける)を父母から継承し、会社は部下に任せて趣味に明け暮れる悠々自適の生活を送っていた[36]。
2022年12月26日昼頃、心不全のため、死去した[5][6][37]。69歳没。妻で銅版画家の林由紀子によると、川本はここ十年ほど腎臓を患っており、人工透析が欠かせない体質になっていたという。そうした中、同年暮に新型コロナウイルスの診断を受け、しばらく自宅待機していたが、体調悪化により25日に緊急搬送され、26日に容体が急変したという[5][6][37]。2023年1月11日、白馬社の広報担当より、川本の死去が正式に公表された[1]。戒名は「玄徳院法音日博居士」[38]。同年8月13日、かつて川本と関係があった内山亜紀、小形克宏、さべあのま、竹熊健太郎、堀内満里子(火野妖子)らが寄稿した追悼文集『川本耕次に花束を』がコミックマーケット102の「迷宮」スペースで頒布された[39]。
官能小説をのぞく川本耕次名義の唯一の単著に『ポルノ雑誌の昭和史』(ちくま新書)がある。同書の帯コピーは「エロ本屋は、永遠に勝てない闘いを続けるゲリラである」。
現在すべて絶版につき入手困難。これについてメイザーズぬまきちは次のように語っている。
川本耕次の著作は、もう殆どが手に入らない。若い頃の小説は掲載誌が児童ポルノに指定されていて売買も閲覧もかなわない。群雄社以降の官能小説は電子書籍自体も取り下げてしまったため、こちらも読めない。古書でわずかに流通する本も、状態の良いものは既にプレミア本。永田守弘の本に収められた短編『ナイロン100%スクール水着』なんて元値の5倍近い。残る本は『ポルノ雑誌の昭和史』だけ。悲鳴をあげたくなる[40]。
個人的なことにもなるが、迷宮として漫画批評誌『漫画新批評大系』を出していた七七年の時点において少女漫画とエロ劇画は、新たな可能性を持つ漫画ジャンルとして取り組みを始めることにもなっていった。七七年十二月に出た『漫画新批評大系』(第2期/VOL.1/迷宮77)において、ぼくは「戦後少女マンガの流れ」の連載を開始し、同時に川本耕次と共に「三流劇画ミニマップ」を“三流劇画共闘会議”名で掲載した。(中略)たぶん、ここから三流劇画ブームはスタートしていったはずなのである。(中略)迷宮の中で三流劇画、エロ劇画に積極的に関わっていたのは川本耕次、青葉伊賀丸、そしてぼくだ。川本はこの年の六月頃には『別冊官能劇画』の編集者となり、業界につながりが出来、迷宮と深い関わりのあった村上知彦が編集に携わる『プレイガイドジャーナル』に企画を立ち上げるなどの動きが重なっていく。亀和田武の人脈による『本の雑誌』でのマンガ評の三流劇画の扱いも含め、サブというよりカウンター的意識を持っていたミニメディアとの結びつきが力を与えていくことになる。『別冊新評 SF新鋭7人集』で同人誌の世界にページを割いてくれたS編集長に「三流劇画」の世界を作らせてくれと言ったのはぼくだが、時期尚早ということで、石井隆を出した後ならという確約をとれたのは秋頃だったという記憶がある。 ──米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月 221-223頁
おいらが作ったのは『Peke』という漫画誌なんだが、SFとか鬼太郎とかCOMとか、まぁ、そんな感じです(笑)。この時期、おいらが同人誌で煽った三流劇画というのがメディアに注目されるようになり、大阪で出ていた情報誌『プレイガイドジャーナル』の1978年8月号で座談会が行われるんだが、そこではおいらの肩書きは「新創刊誌の準備中」となってますね。おいらも特にSFやニューウェーブ系漫画をやりたかったわけじゃなく、エロ劇画でも良かったんだが、たまたま会社がアニメで当てたので、その連続性の企画を宛てがわれたわけですね。まぁ『Peke』というのは、あまり売れなくて半年で潰れるんだが、おいらへそ曲がりなので、最後の号の表紙にデカデカと「廃刊号」と入れ、編集後記で大見得切ったわけだ。アジテーションは得意だから(笑)。で、あまり売れないと言ってもそれなりには売れていたわけで「止めないで」という葉書が5000通ほど届いたらしい。経営者が葉書の山に仰天して、でも、おいら、もう会社辞めちゃってるし、廃刊しちゃったしで、後の祭り(笑)。そこで後釜として作られたのが『月刊COMIC AGAIN』です。コレは『COM』の編集をやっていたというオジサンをどっかから連れてきて、創刊号がCOM特集Part2(Part1は『Peke』の廃刊号)というのだから、実質的な復刊ですね。実はおいら、立上げ当時の『月刊COMIC AGAIN』の記事ページの編集まかされて手伝っていたんだが、他にも、別冊新評という出版社で企画していた「三流劇画の世界」という本にかかわるわけだ。 ──ネットゲリラ「昭和ポルノ史 番外編 おいらの自伝です その4」(2010年10月10日配信) - ウェイバックマシン(2011年11月16日アーカイブ分)
今だから言えるが、ペンネームは6人分だが書いたのは3人。ぼくと川本と青葉である。構成も手伝っている。そんなこともあって「編集後記」では「この特集で筆者の数の不足は否めないが、すぐれた劇画論、作家論を生むためにはもう少し時間が必要かもしれない。この本がそういった意味で今後の資料になればよいが」と編集長にグチられている。これ以前、エロ劇画に触れたものはごくわずかしかない。69年の『えろちか』と74年の『宝島』の特集がそれであり、陽の当たらないジャンルマンガ誌をここまで徹底して取り扱ったのはこの特集雑誌が初めてであり、そうして最後でもあった。この本では75年の創刊ラッシュから、77〜78年の最盛期の状況まで、概要を見渡すことができる。──米沢嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝舎 2010年4月 225頁
コミケット周辺に集まっていた人間がみんな社会人になり、あるいは編集者に、あるいは作家に、それぞれ連動しながら動いていたのだが、同人誌時代にやった「三流劇画ミニマップ」の余波が、その頃になっていろいろと出て来る。まず、大阪で出ていた情報誌『プレイガイドジャーナル』の1978年8月号で三流劇画をテーマとした座談会があり、翌年には『別冊新評』という雑誌で「三流劇画の世界」という特集が出る。三流劇画の世界は、米澤氏と私でずいぶんたくさんの原稿書いてます。他にほとんど書き手がいなかったので仕方ない。またTVでも人気番組『11PM』で特集が組まれたりと、マスコミ挙げていろいろと騒々しい事になるんだが、その本が出る頃には当人たちはとっくに、次のネタに取り掛かっていたりするわけです。 ──川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』筑摩書房〈ちくま新書〉2011年 38頁
1979年の4月の日付で出た『別冊新評・三流劇画の世界』には座談会が載っていて、そこには失業中の私も出席しているのだが、そこでは「ロリコン系のエロ劇画誌を作ってみたい」と発言しているわけです。また、その直前、みのり書房で私が作っていた『Peke』の最終号編集後記では『Little Pretenders 小さなおすまし屋さんたち』(ミリオン出版/1979年1月)という写真集について触れている。次に来るのはロリコンだとそう考えていたのだ。 ──川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』筑摩書房〈ちくま新書〉2011年 178-179頁
私は『東京おとなクラブ』のエンドウ編集長のバイクのケツに乗って、82年の東京を突っ走った。新宿御苑前にあるマンションを訪れると、そこはコミック評論誌『ぱふ』の編集部だ。怪しげな男たちが車座になっている。中心であぐらをかくヒゲ面の男が「がっはっはっ」と豪傑笑いした。「いまやロリコンの時代だからよ〜、その決定版を出そうってのよ。『ロリコン大全集』だ!!」。なんでも川本耕次サンというエロ雑誌界の重鎮だそうな。正座して真面目に話を聞いてるのは慶應大学の学生たちだという。その一人が「よろしくお願いしますっ!」と頭を下げて、サッと名刺を差し出した。へえ、学生が名刺を持ってるのか? と驚いたが、そこには〈『突然変異』編集長〉の肩書が。あっ! と思った。『突然変異』を変態ミニコミ雑誌だと椎名誠が朝日新聞の雑誌評で叩き切って、同誌の学生編集者らが『週刊プレイボーイ』で猛反論、椎名に決闘状を叩きつけるという事件があったのだ。さぞコワモテの輩かと思えば、目の前の青白くひょろっとした青年は柔和な笑みを浮かべている。「青山正明」という名前だった。川本サンは神田にある群雄社という出版社でエロ本を作っていた。当時はビニ本、自販機本の全盛時だ。ビニ本とはビニールで包まれたヌード写真集で、自販機本は自動販売機で売られていたエロ雑誌のこと。自販機のガラス面にマジックミラーが貼られていて、児童が前を通る昼間は鏡だが、夜になるとあら不思議、光のマジックで中が見える!? 煽情的な表紙のエロ雑誌は適当なヌードグラビアと活版ページで構成されている。ザラ紙のその埋め草記事を書く仕事を任されて、私は群雄社に出入りするようになった。「明日までに8ページ、よろしく!」といきなり言われ、〈夏場のアウトドアSEX必勝マニュアル〉みたいないい加減な記事をたったひと晩で書き飛ばすのだ。 ──中森明夫「新人類&おたく誕生前夜──急カーブを曲がろうとしていた──“80年安保”が存在したのではないか? 政治闘争ではない。それは、文化、いやカルチャーにおける叛乱=氾濫だった」新潮社『新潮45』2012年5月号「特集/30年前と30年後」34頁
考えてみると、前作『思春期症候群』から奥付でも三か月しか違わない。会社でも通勤の電車の中でも喫茶店でも書いていた。鉛筆を握りしめて寝た。この長編書き下ろしの二作はその甲斐あってか、まだ世に出てない隠れロリコンの諸氏に多大な影響を与えるとともに、川本耕次イコール美少女小説家というイメージを定着させることとなる。それまでのエロ小説ではロリータが正面きってテーマとなることは少なかったし、それを専門にする作家もいなかったのだ。 ──川本耕次著作リスト(単行本篇)『エロティック・トラウマ 教師と十二歳の少女の恋物語』解説 - ウェイバックマシン(2002年2月3日アーカイブ分)
群雄社版はカバー印刷にシルバーブルーの特色、本文はなんと活版の二色刷り(通常オフセット印刷)しかも旧字旧カナ遣いもアリという凝りまくった造りの短編集。オートライティング・マシーンとしての書き飛ばし原稿ではなく、ロリコン小説という存在を世の中に認めさせようという意欲にあふれていた時代の作品。ワタシの本の中でどれか一冊、というならコレにトドメをさすんじゃなかろうか。短編ばかりだが、いずれもその後の長編小説の元ネタとなった作品ばかり。粒ぞろいなのだ。イラストは吉田光彦、解説は劇団主催者の小松杏里という下北沢コンビ。出版に賭ける意気込みだけは盛んだったが、群雄社の経営はおもわしくなく、ほどなくしてツブれることとなる。 ──川本耕次著作リスト(単行本篇)『ナイロン100%スクール水着』解説 - ウェイバックマシン(2002年2月3日アーカイブ分)