アニメーション映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(原案・脚本・監督)『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(製作)『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(製作)『ワンダフルデイズ』(日本語脚本・演出)
実写映画『ラブ&ポップ』(出演・小道具協力)『キューティーハニー』(出演・企画協力)
テレビアニメ『超時空要塞マクロス』(演出助手/第9話:絵コンテ・演出)『小松左京アニメ劇場』(脚本)『まほろまてぃっく』(監督・シリーズ構成/第1〜3、5、7、8、10〜12話:脚本)『アベノ橋魔法☆商店街』(監督・脚本)『まほろまてぃっく〜もっと美しいもの〜』(監督・シリーズ構成/第1、12、13話:脚本/第14話:脚本・絵コンテ・演出)『天元突破グレンラガン』(企画/第16話:演出)
山賀 博之(やまが ひろゆき、1962年3月23日[1][2] - )は、日本の映画監督、脚本家。株式会社ガイナックス元代表取締役社長。
監督作品として映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』などが知られる[1]。
新潟県新潟市生まれ[1]。新潟市立宮浦中学校卒業、新潟県立新潟南高等学校卒業、1980年、大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(現・映像学科)入学[2]、中退[1]。
映画監督の庵野秀明とは同じ寮で知り合い、この時に初めてアニメーションに興味を持つ[1]。
1981年、第20回日本SF大会(愛称:DAICON 3)のオープニングムービー制作を期に集まったDAICON FILMのメンバーとして自主制作アニメや映画に携わる[3][4]。
1984年、ガイナックスを設立[2]。大阪での活動に限界を感じていた山賀は、同時期に不倫問題から大阪に居場所を無くしたと悩んでいた岡田斗司夫の窮地を契機と考え、岡田を東京進出に誘う[5]。岡田は、自身の利害と一致していたため、山賀の誘いに乗り、不退転の覚悟で東京進出を決めた、と語っている。しかし、赤井孝美と庵野秀明は、マクロスの制作に参加したことによって3人はプロになろうと決意したが、当時は大阪の学生でプロの成り方が分からず(当時のアニメ制作は一作品ごとにスタッフを集めるシステム)悩んでいた時に、「色んな人脈がある岡田さんが問題を起こして大阪出て行くと言い出したので山賀が、なら一緒に東京行きましょうになった」と語っており、若干の違いがある。 赤井は、山賀は本当は大学卒業してから東京に行くつもりだったとも語っている。誰もが上手くいくとは考えていない中、バンダイへのプレゼンに成功し資金を引き出すことで、岡田斗司夫らと共に、後述の映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』制作のための企業という名目で株式会社ガイナックスを設立した[6]。
1987年、映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』で24歳(製作開始時)にして監督デビュー[要出典]。
監督にはどうすればなれるかと思い、淀川長治の本を読むと「同じ映画を十回観れば映画監督になれる」と書いてあったので、『がんばれ!ベアーズ 特訓中』を10回観て本当になってしまった、と語っている[1]。
放課後のプレアデス共