『天と地と』(てんとちと)は、海音寺潮五郎の歴史小説。戦国時代、天才的な軍略の才で越後国を統一し、甲斐国の武田信玄と名勝負を繰り広げた上杉謙信を描く。
1960年から1962年まで『週刊朝日』誌上で連載された。
上杉謙信の出生から実父に疎まれながら成長した少年時代、年少の身で華々しい軍功を上げて越後の統一を成し遂げ、天才的な武将として名を轟かせて関東管領に就任し、宿敵・武田信玄との最大の戦いである川中島の戦い(第四次)に至るまでを扱う[注 1]。
海音寺は謙信を主人公にしたことについて、「川中島の戦いは古来、文学として数多く取り上げられているが、ほぼ全てが武田側からの視点で描いたものであり、上杉側から描いたものは目にしたことがなかった。未開の野を開拓する気持ちも込めて、謙信を取り上げることにした」と語っている。かねてより海音寺は「日本人に日本歴史の常識を持ってもらいたい」という考えを持ち、歴史の真実を伝えることに主眼を置く史伝形式の作品を多数執筆していた。その代表作が『武将列伝』であり、この作品の連載で信玄を取り上げたいと依頼されてその事績を調べめたものの、調べるうちにライバルである謙信の持つ魅力に強く惹きつけられるようになった。『武将列伝』の中で謙信を書きたいと思ったものの結局その機会は訪れず、連載終了から数年後に『週刊朝日』編集長の田中利一(当時)から連載小説の仕事を打診されたことにより、謙信を主人公にした小説を執筆することとなったという[1]。
1969年には、NHK大河ドラマ第7作『天と地と』としてテレビドラマ化された。また1990年には角川春樹事務所により映画化され、この映画の公開連動企画としてテレビドラマ『天と地と〜黎明編』も製作された。2008年にもスペシャルドラマ化され、テレビ朝日系列で放送されている。
越後国の守護代・長尾為景の子・虎千代は、出生の経緯から実子であるかを疑われ、父の愛情を受けることなく成長した。不遇な幼少期を過ごした虎千代であったが、しかし長じるにつれて近習が眼を見張るような聡明な少年に育つ。殊に負けん気が強く気に入らないことは毅然として撥ねつける気性と、道理に合わぬことは子供とは思えぬ賢しさで論駁する利発さは幼いながらも英傑の片鱗を窺わせた。が、為景の態度は変わることはなく、元服して「喜平二景虎」と名乗りを与えた後も息子を疎んじ続け、何かと理由をつけて身辺から遠ざけようとし、ついには居城の春日山城から追い払った。
やがて為景は隣国越中での戦で戦死し、その跡を嫡男の晴景が継ぐものの、ほどなく同族の長尾俊景が晴景の守護代就任に不満を持ち反乱を起こした。凡庸な晴景の器量を危ぶむ声は従前より囁かれており、俊景が蹶起するや多くの豪族がたちまちその麾下に随従した。越後は分裂状態に陥ったものの、怠惰な晴景は酒色に惑溺して家臣の諌めも聞かず、偸安の生活に耽るばかりであった。一方、景虎は越後随一の有力者である宇佐美定行に引き取られ、彼の下で兵学の教示を受け、次第に軍略の才能を開花させてゆく。定行の城に寄寓する中、景虎は定行の娘の乃美とも知り合い彼女に心を惹かれるが、不器用な性格から胸の内の想いを伝えることができなかった。一通り兵学を修めた後、諸国巡歴の旅に臨んだ景虎は、甲斐国において国主・武田晴信の行列に遭遇する。若くして守護の座に就き、すでに名将として諸国に名を知られたその勇姿は景虎の心に強く焼きついた。
若き景虎に内乱を鎮め得る大器を見出した定行は決起を説き、景虎は寡兵をもって俊景相手に軍を上げる。戦上手で知られた俊景であったが、景虎はこれをまるで手玉に取るかのようにして鮮やかに討ち取った。初陣を見事な戦勝で飾った景虎に世情は驚嘆し、軍神毘沙門天の申し子ではないかと言いさざめいた。年少の身で華々しい軍功を上げた景虎の評判は国を覆わんばかりに広まるものの、兄の晴景はこれを快く思わずその名声を嫉み、ついには暗殺者を仕向けるも景虎は辛うじて難を逃れる。父に愛されない上に兄にまで殺されかけた我が身を景虎は慨嘆するが、定行はいまこそ晴景を追い落として守護代の座に就くべきと鼓舞し、景虎は兄と戦うことを決断する。その脳裏には甲斐の守護となるため実父を追放した、かの武田晴信の姿があった。晴景の軍を破った景虎は兄を隠居させ、春日山城に居を構えて抵抗勢力も鎮圧し、越後の再統一に成功する。折しも守護の上杉家に人が絶えていたこともあり、景虎は守護職に就くこととなった。弱冠二十歳にして越後の国主となった景虎であったが、しかし時折世の何もかもが虚しく思える虚無感に襲われることがあった。かねてより景虎は、諸行無常の世界の中で束の間の富や栄誉を手にしたところで何になるといった激しい虚無感に悩まされてきたが、国主の座に就いた後もそうした感情が消えることはなかった。そうした厭世感からの救いを求めた景虎は仏道に傾倒するようになり、殊に毘沙門天を熱心に信仰するようになる。夢に現れた毘沙門天に啓示を受けた景虎は、折にふれて胸を焦がす乃美への恋慕も捨て、女色を断って武の道に生きることを決める。
将軍家によって正式に守護職の承認を得てほどなく、北条氏康との抗争に敗れた関東管領の上杉憲政が越後に亡命してきた。管領上杉氏は長年小田原の北条氏の脅威に晒され続けてきたが、ついに支城を落とされ景虎に庇護を求めて来たのだった。憲政は北条氏を下してくれれば上杉氏の名跡と管領の職を譲ると懇願し、これを承知した景虎は北条氏との戦いの準備を始める。しかしその矢先、かねてより信濃国に触肢を伸ばしていた武田晴信が、ついに北部を除く信濃の大部分を平定したという報せがもたらされる。北信濃を取られれば隣接する越後も脅かされかねず、景虎は軍を率いて越信国境に位置する川中島を渡って北信濃に深く進入するものの、晴信の見事な智謀によって無残に敗退させられる。初めて敗北を味合わされ自身を見つめ直すことを余儀なくされた景虎は、上洛の機会に合わせて臨済宗の古刹・大徳寺で参禅し、一つの悟りを得る。煩瑣な雑念を捨て去ったその視界には天と地とが八方無礙に広がり、己の精神が悟徹に至ったと確信した景虎は、雪辱を果たすべく再び晴信に挑む決意をする。
越後に帰国した景虎は、川中島周辺を舞台に晴信と再三干戈を交えた。道理と義を何より尊ぶ景虎は、自身と違って陰湿な策謀も辞さない晴信を「姦悪の徒」として嫌うものの、しかしその天性の軍才は認めずにはいられなかった。その戦略・戦術は巧緻を極め、本陣旗に記した孫子の文句に恥じぬものであり、かつて景虎はこれほどの敵に出会ったことがなかった。しかし桶狭間の戦いによって駿河国で政変が起こり、晴信の注意がひとまずそちらに向いたことから、景虎は棚上げになっていた北条氏との戦いに臨む。関東に足を踏み入れた景虎は、北条方に与する諸豪を蹴散らして怒涛の勢いで進撃し、居城の小田原城をも包囲する。城を落とすまでには至らなかったものの、関東一円に武威を示した景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮で管領就任の儀を執り行い、上杉氏の名跡を継いで名を「上杉政虎」と改める。やがて新管領・政虎のもとに、武田勢が再び越信の国境を荒らしているという報がもたらされた。北条と示し合わせての行動であることは明らかであり、政虎は管領としての面目を賭けた大戦を挑むべく準備を始め、同時に宿敵・晴信との間に雌雄を決する覚悟を固める。折しも病に倒れた乃美を見舞った政虎は、乃美にこれまでの想いを伝え、快癒の際に正室に迎えることを約して出陣する。入道して新たに「信玄」の法号を名乗った晴信は、再び川中島近辺に陣を張っていた。
川中島に到着した政虎は、やにわに敵の懐中に陣を張るという大胆な戦法をとった。わざわざ死地に飛び込むような真似をしたのは武田方の油断を誘って十死一生の決戦に持ち込もうという意図からであったが、しかし敵もさるもので信玄もそうした考えを鋭敏に察して戦陣を立て直し、戦況は膠着状態に陥る。しばしの睨み合いが続いた後に信玄は一計を案じ、別働隊を編成して政虎の陣を襲撃し、慌てて遁走してきた政虎を退路に待ち伏せていた本隊によって討ち取るという計略を立てる。大規模な別働隊を夜襲に向かわせた信玄は、自身が率いる本隊を埋伏させ、追い立てられる政虎を待ち続けた。ところが払暁、立ち込める濃霧を裂いて突如として眼前に政虎の部隊が出現した。信玄の魂胆を看破した政虎は密かに陣を引き払い、夜陰に紛れて武田軍の横腹を突いたのだった。予想もしなかった政虎の出現に武田勢は驚愕し、部隊は大混乱に陥った。狂乱の渦中を一騎駆けで本陣に突入した政虎は、自ら佩刀を振るって信玄に斬りかけ、信玄は辛うじて軍配で防ぐものの、その切先によって肩を切りつけられる。
やがて異変に気づいて引き返してきた別働隊が本隊と合流し、政虎は退却を余儀なくされる。信玄の首を取ることはかなわなかったものの、累年の宿敵に一太刀報いた充足感を胸に、政虎は越後に帰国した。が、凱旋した政虎を迎えたのは乃美の死だった。我が身の果報を祈って息を引き取った臨終の様子を聞くや戦勝の喜びも掻き消え、政虎はあくせくと生きてきたこれまでの己の生を振り返り、すべてが虚しいもののように思われた。関東管領職・上杉家の名跡など数多の栄誉を手にしながらも、最愛の女性ただ一人をこの胸に抱くことはかなわなかった。止めどなくあふれる涙を抑えることができないまま、政虎はもはや手の届かぬ所へ逝ってしまった乃美に想いを馳せた。
本作には信玄の名軍師として知られる山本勘助が登場しない。これは明治期より歴史学に導入された実証主義の手法によって勘助の主要な活躍が記された『甲陽軍鑑』の史料的価値が疑われ、勘助の存在にも疑念が持たれるようになったためである。海音寺はこうした勘助が実在しなかったとする学説、もしくは作戦に参加する資格のない低い分限の者であったとする説を支持し、本作において勘助を登場させなかった[2]。
なお、山本勘助については、1969年の大河ドラマ版の放送中に発見された市河家文書や、2008年に発見された真下家所蔵文書により、実在の人物であるという説が有力になっている(詳細は山本勘助の項目を参照)。
1990年に公開された(旧)角川春樹事務所製作の、いわゆる角川映画。製作費は50億円[4]。総製作費は55億円とされる[5]。
プロデューサーの角川春樹は、角川映画15周年を記念した大作として企画し、映画『影武者』や『敦煌』を越えるべく、『復活の日』以上の資金を集めるために製作委員会方式を採用した。合計48社から1億円ずつの出資を募り、ほとんどの会社を角川が直接出向いて資金を集めた。角川は後に「バブルが弾ける前だったから集まった。あと1、2年遅かったら映画はできなかった」と語っている。角川は海外進出も見据えた文字通りの「大作」とするべく、和洋折衷だった『復活の日』や敵味方の区別が不明瞭だった『敦煌』が海外展開に失敗したこと踏まえ、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『イノセント』を参考に、キャッチコピーの「この夏、赤と黒のエクスタシー」の通り、上杉軍を黒一色、武田軍を赤一色に統一し川中島の合戦を描くアイデアを公開前から注目させた。そして自らが監督を務め、巨額の制作費を投入した[6]。
上杉謙信役には1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』でブレイクし、当時最も期待されていた若手男優渡辺謙を抜擢した。角川は渡辺の役作りのため、撮影の1年半前から、謙信の毘沙門天への信仰や人生観、自然観を渡辺に教育させ、一緒に毘沙門天を祀る信貴山朝護孫子寺への参籠も行った[7]。
謙信と信玄の人間ドラマを全て描くと7時間超の上映時間になると判断した角川は、人間ドラマを捨て、プロモーションビデオ風の作品作りを心掛けた。そのため、役者は芝居に対し、一切怒鳴らず、日常語で平坦に台詞を喋る演出が行われた。また、映画『僕らの七日間戦争』で付き合いのあった小室哲哉に映画音楽を依頼し、エンディングタイトルの劇伴は、シンセサイザー奏者の宮下富実夫の演奏に真言読経を被せるなど、斬新な時代劇を目指した[8]。
合戦シーンは、実際の川中島が自身の構想の舞台として狭すぎると判断し、旧満州国があった中華人民共和国の東北地方をロケ地の候補とするが、使用できる馬が小さく騎馬戦に不向きなこと、『敦煌』の撮影後に機材が中国当局に日中友好の名目で接収され、製作費も甚だしく中間搾取された情報を知り、『復活の日』の海外ロケで土地勘のあったカナダ・カルガリーで大規模ロケを行うことにした。カルガリーの高原は牧畜が盛んでカウボーイが多く、馬が集め易かった。1989年、500頭馬と3000人のエキストラを集め、1日8000万円、総額25億円をかけて、映画『ワーテルロー』を参考にした合戦ロケが行われた。しかし、カルガリーのロケ中に渡辺が急性骨髄性白血病に倒れ降板、角川が代役にと望んだという松田優作も、既に膀胱癌と闘病中で、角川が直電した依頼も、「エキストラの騎馬隊の1人なら」と断り[9]、名目上はドラマ『華麗なる追跡 THE CHASER』のスケジュールの都合を理由に起用は断念された[10]。そのため、緊急オーディションで榎木孝明を代役に立て、何とか撮影続行・公開に漕ぎつけた[注 2]。
作品の評価は、当時、カンヌ映画祭の選考委員だったマックス・テシェが「野心的ではあるが、ドラマが弱い」と指摘するなど、人物描写が希薄で、意味不明なシーンが多いなどの批判があった。一方で、クライマックスの川中島の戦いのシーンでの、全く合成を使わず何万ものエキストラが縦横無尽に動く迫力ある映像を評価するというものもあった[11]。当時から「せめて渡辺が謙信を演じていれば…」という声はあった[12]。2007年の日本アカデミー賞で渡辺が最優秀主演男優賞を獲得した際、この作品を降板したことの無念とその後の苦労に言及した。
配給は当初東宝予定だったが、配給歩率を巡り商談が決裂[13][14]。角川が東映社長の岡田茂に依頼し、東映洋画部に代わった[15][16]。角川と東映は一度決裂しており、東宝も角川がまさか東映に話を持ち込むとは考えず、強気の契約に出たのが裏目に出た[15]。配給歩率は角川85、東映15である[14]。角川は岡田に「前売り券を500万枚売る。そのうち、東映で100万枚引き受けてくれ」と要求したという[16]。製作費50億円のうち、宣伝費に角川側が15億円、東映が7億円を負担した[17]。単純計算で前売り券だけで配収25億円となる[17]。配給が東映に代わったことで、東宝の1990年夏の上映ラインナップに穴が空くこととなり、東宝がフジテレビジョンに相談して、急遽代替の企画として『タスマニア物語』を完成させ、大ヒットさせた。
バブル景気の頃に企業から出資を受けて、企業の団体動員に支えられた前売り券映画と呼ばれる映画が数多く作られたが、30社以上の出資を受けた本作は、大映の『敦煌』と並んで前売り券映画の代表作と言われる[18][19][20][21]。しかし、400万枚もの前売り券が企業にバラまかれた結果、配給収入で50億円を突破して数字の上では大ヒットでありながら、前売り券が金券ショップで叩き売られて劇場は閑散としていたという[22]。関連企業を通じて売った前売り券の総数は477万枚[23]または約530万枚[24][25]ともされる。尚、ビデオ販売による二次使用やテレビ放映による三次使用を含めば、投資金額は十分回収されている[26]。
劇中で上杉謙信役の榎木が使用した甲冑は、2007年の大河ドラマ『風林火山』で同役を演じたGacktが自身の曲「RETURNER 〜闇の終焉〜」のミュージック・ビデオの中で着用している[27]。
角川は撮影終了後も、急病降板した渡辺のために祈祷を続け、回復した渡辺に後日、その逸話を語ったところ、「知っていました。毘沙門天が病室に飛んでいるのが見えました」と答えられ、とても驚いたという[28]。
『天と地と』[30] - NHKで放送。放送期間:1969年1月5日 - 12月28日、全52回。
『天と地と〜黎明編』 - 日本テレビ系列で放送。放送日:1990年4月20日。
『天と地と』 - テレビ朝日系列で放送。放送日:2008年1月6日。
石川賢により漫画化された。映画版公開時には角川書店のメディアミックス戦略により、表紙カバーを映画の映像を利用したものに変更して発売された。
映画版とのタイアップで発売された、戦国シミュレーションゲーム。開発陣の当時の代表作『シュヴァルツシルト』のシステムがベースになっている。独特のシステムとして、「謙信が毘沙門天堂に籠り、寿命を削ることで戦力を上げる」などがある。
ゲーム音楽は映画版の音楽を手掛けた小室哲哉の楽曲を元に、開発メーカーの音楽担当がアレンジをしている。[31]