大岡 忠光(おおおか ただみつ)は、江戸時代中期の旗本、大名。江戸幕府の御側御用人、若年寄を務め、第9代将軍徳川家重の側近として活躍した。上総勝浦藩主、武蔵岩槻藩初代藩主。
300石の旗本・大岡忠利(助七郎)の長男で、大岡忠房家4代当主。同時代に江戸南町奉行として活躍した大岡忠相(後に三河西大平藩主、いわゆる大岡越前)とは、ともに大岡忠吉の子孫に当たる関係(忠利が忠相のはとこにあたる)であり、個人的にも親交があった。
享保7年(1722年)に第8代将軍徳川吉宗に御目見する。享保9年(1724年)8月に将軍世子(後の第9代将軍)家重の小姓となり、江戸城二の丸へ詰める。翌年には西の丸へ詰め、以後家重に側近として仕える。享保12年(1727年)従五位下出雲守に叙任。享保18年(1733年)、800石の知行取りとなる。
延享2年(1745年)の家重の将軍就任以後、家重の幼い頃から近侍していた忠光は、不明瞭な家重の言葉を唯一理解できたため信頼があつく、その側近として異例の出世を遂げた。宝暦元年(1751年)に上総勝浦藩1万石の大名に取り立てられ、同4年(1754年)に奥兼帯の若年寄に昇進し、5000石を加増された。同6年(1756年)には吉宗時代に廃止されていた側用人に就任して従四位下に昇り、さらに5000石を加増され、合計2万石を得て武蔵岩槻藩主に封じられた。
※日付=旧暦
法名:得祥院殿義山天忠大居士。墓所: 埼玉県さいたま市岩槻区日の出町の龍門寺。
将軍の言葉を意のままに伝えることができたにもかかわらず、決して奢ることや幕政に口を挟むようなこともなかったという。遠縁で同じく旗本から大名へ出世した大岡忠相に身のあり方などを聞いていたという。
当時の忠光を知る逸話として、当時オランダ商館長をしていたイサーク・ティチングが、忠光のことを著書『将軍列伝』の中で次のように書いている。
「家重は大岡出雲守という真実の友を持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人の過失も咎めなかった。あらゆる点で大岡は上にあげた吉宗お気に入りの3人の家来(吉宗の御側御用取次であった加納久通、小笠原胤次、渋谷和泉の3人の事)をお手本にしていた。それで、その死後、大岡について次のような歌ができたのである。 『大方は出雲のほかにかみはなし』 その意味は、要するに『出雲(=忠光)のような神はない云々』ということであるが、詠み人は、出雲(=忠光)の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。(なぜなら、)『我々は皆、そのこと(忠光の人柄と業績)をよく見て知っている』といい、また、『そして涙を流して彼(=忠光)の思い出に感謝を捧げるのだ』ともいっている。」 — イサーク・ティチング『将軍列伝』
「家重は大岡出雲守という真実の友を持っていた。大岡出雲守はまことに寛大な人物で、他人の過失も咎めなかった。あらゆる点で大岡は上にあげた吉宗お気に入りの3人の家来(吉宗の御側御用取次であった加納久通、小笠原胤次、渋谷和泉の3人の事)をお手本にしていた。それで、その死後、大岡について次のような歌ができたのである。 『大方は出雲のほかにかみはなし』 その意味は、要するに『出雲(=忠光)のような神はない云々』ということであるが、詠み人は、出雲(=忠光)の立派な性質のすべてについていうことは皮相なことであるとつけ加えている。(なぜなら、)『我々は皆、そのこと(忠光の人柄と業績)をよく見て知っている』といい、また、『そして涙を流して彼(=忠光)の思い出に感謝を捧げるのだ』ともいっている。」
幕府の要人に対しても忌憚なき庶民の生の声が知ることの出来る川柳では「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と世間で謳われた松平定信のように幕政などへの批判が少なくないが、この句から忠光が民衆に好意を持たれていたことが非常に良くわかる。また、この句の作者の忠光に対しての尊敬と感謝の思いは読み手にも伝わってくる。
父母
正室
子女