外枦保 重秋(そとへぼ しげあき、1948年10月14日 - )は、日本の元騎手・調教助手。
1973年3月3日に栗東・二分久男厩舎からデビューし、阪神第3競走4歳未勝利・アポミドリ(8頭中6着)で初騎乗を果たすと、同25日の小倉第4競走アラブ4歳以上オープン・ミツノセカイで初勝利を挙げる。5月12日、翌13日の京都では初の2日連続勝利、6月24日の中京では初の1日2勝を記録。1年目の同年から2桁で自己最多の25勝をマークし、3年目の1975年まで3年連続2桁勝利を記録[1]。
1975年にはNHK杯と東京優駿でトップジローに騎乗し、NHK杯ではカブラヤオーのハナを叩いて逃げた[2]。東京優駿では強引に先頭を奪ったカブラヤオーに1コーナーから2コーナーと執拗に絡み[3]、実況していた長岡一也(当時・日本短波放送アナウンサー)は「玉砕戦法」と伝えたほか、後に大橋巨泉は「何でカブラヤオーに行かせてやらないんだ。最悪の騎乗だ」と批判した。3ハロン34秒5で飛ばし[4]、カブラヤオーは皐月賞を上回る前半1000m58秒6、1200mを1分11秒8という驚異的なハイラップを刻んでしまい、トップジローはカブラヤオーから5秒6遅れた26着に終わった[3]。
1977年から1979年には2度目の3年連続2桁勝利を記録し[1]、1979年7月1日の阪神第4競走4歳未勝利・シンフェイムで通算100勝を達成。同年の阪神3歳ステークスではノースガストでラフオンテースに次ぐと同時にオペックホースを抑えて2着に入り[5]、連闘で挑んだ1980年の東京優駿では10着[6]に敗れるが、皐月賞馬ハワイアンイメージには先着した[7]。
1981年には1年目以来となる20勝をマークし[1]、重賞では後にジョーカプチーノの3代母に当たる[8]ジョーバブーンで不良馬場で牡馬相手の金鯱賞を13番人気ながら5着、京阪杯2着、阪神牝馬特別3着と活躍[9]。所有していた馬主の上田けい子は、後に「すごく負けん気の強い、後方一気で伸びてくる馬」と表現している[10]。
東田幸男と共に二分厩舎の主戦騎手を務め[6]、1982年は自己最低の6勝[1]に終わったものの、中日新聞杯ではハイセイコー産駒タツユウチカラ[11]でタニノチカラ産駒エントリーホープ[12]を抑えて自身唯一の重賞勝利を飾る[13]。
1984年には8勝[1]中4勝を秋の福島で挙げ[14]、10月21日の第7競走きんもくせい特別では7頭中6番人気の九州産馬ヨシノアンズで勝利し[15]、同28日には自身最後の1日2勝[16]をマーク。12月23日の阪神第1競走3歳未勝利・インターワカクサが最後の勝利[16]、1985年9月22日の阪神第8競走4歳以上400万下・ヒミノヒカリ(16頭中16着)が最後の騎乗[17]となった。同年に騎手を引退[17]。
引退後は二分厩舎の調教助手となった。