『夏子の冒険』(なつこのぼうけん)は、三島由紀夫の7作目の長編小説。無邪気で破天荒な美人のお嬢様・夏子が、猪突猛進な行動力で北海道に向い、仇討ちの青年と一緒に熊退治に出かける恋と冒険の物語。夏子に振り回される人たちの慌てぶりを交え、コミカルなタッチで描かれた娯楽的な趣の作品となっている[1]。
1951年(昭和26年)、週刊誌『週刊朝日』8月5日号から11月25日号に連載された(挿絵:猪熊弦一郎)[2][3]。単行本は同年12月5日に朝日新聞社より刊行された[4][1]。翌々年の1953年(昭和28年)1月14日には、角梨枝子主演で映画も封切られた[5]。文庫版は1960年(昭和35年)4月10日に角川文庫より刊行された[4]。翻訳版は、中国(中題:夏子的冒険)で行われている[6]。
村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、『夏子の冒険』のパロディあるいは、書き換えであるという仮説がよくいわれている[7][8][9][10]。
『夏子の冒険』は、「お嬢さま」を主人公とした三島の作品群の中でも、特にヒロインが大活躍し、女子の魅力があふれているものの一つであるが[10]、この作品の執筆当時は、まだ日本が敗戦後数年しか経っておらず、連合国の占領下の時代で、女子の4年制大学進学率も低く、良家のお嬢さんは高校や短大などを出ると「良縁」を待つことが一般的で、主人公・夏子もそうした良家の子女の設定となっている[10]。また、夏子が惹かれる青年は、恋人を熊に殺され仇討ちに行く若者の設定となっている[10]。
三島は『夏子の冒険』の主人公たちについて次のように述べている[11]。
舞台は北海道だが、主人公の若い男女は都会人である。しかし都会の中には若い彼らがあふれるエネルギーをぶつけるに足る対象がみつからない。彼らは別々の夢をもつて東京を出てくる。この若々しい青春のはけ口を託するに足る夢を、今の時代が与へてくれないことが不満なのである。私は現在の日本に多少とも外地にちかい雰囲気を漂はせてゐる北海道の湖や森のなかに、彼らの夢を追つてゆかうと思ふ。彼らのロマンチシズムにかぶれた脱線旅行を、苦笑したり皮肉つたりしないで追つてゆかうと思ふ。野宿の恋人同士が夜半目をさまして仰ぐ星は、どの星座の星がよからうか? 大熊座の星がいいだらうか? かれらの情熱は熊の形をしてゐるからである。 — 三島由紀夫「作者の言葉」[11]
上述のように、北海道は当時まだ〈外地〉に近い雰囲気を漂わせていた時代であり、歴史的に見て、「近代国家」と「北海道」の関係を反映していた作品という面もある[10]。なお、そういった点の見られる同系列の小説は他に、有島武郎『カインの末裔』、吉屋信子『海の極みまで』、武田泰淳『森と湖のまつり』、安部公房『榎本武揚』、池澤夏樹『静かな大地』などがある[10]。
20歳の松浦夏子は、ある朝、突然朝食の食卓で、「あたくし修道院へ入る」と家族に宣言した。美しい夏子には降るように男たちから申し込みがある。しかし、大学法学部の助手も、社長の御曹司も、建築家志望や芸術家志望の青年も誰一人、死の危険を冒したり、愛のために命を賭けたりするような情熱も持っていない、ありきたりな出世を望む退屈な青年ばかりだった。処女の夏子は、いくら探しても望む男がいない以上、神に仕えて浮世と絶縁して、憧れていた北海道函館市にあるトラピスト修道院で暮そうという結論に達したのだった。家族はもちろん猛反対だったが、自殺未遂までやらかす頑固な夏子に押され、入会後半年間の志願期はいつでも脱退できることを知った父はやむなく承諾した。
夏子の母、伯母、祖母が付き添って北海道の函館へと旅立った。ふと夏子は上野駅で、猟銃を背負い、目の輝きが他の人と違う青年を見かけた。彼は夏子と同じ青森から出帆した青函連絡船にも乗っていた。2人は甲板で言葉を交わし、次の日、函館で会う流れになった。彼・井田毅は一昨年、千歳に近いアイヌ部落・蘭越コタンで知り合った16歳の和人の少女・秋子と結婚を誓い帰京したが、その直後、秋子は無残にも熊に手足をバラバラにされ殺されてしまったのだった。毅はその4本指の人喰い熊を仇討ちするために、休暇をとって再び北海道に来たのだった。夏子は毅の話を聞いて、自分も熊退治について行くと言い出した。最初は何とか夏子をまこうとした毅だったが、決心のゆらがない夏子に根負けし、お供させることとなった。
一方、函館の宿に残された母、伯母、祖母は夏子の失踪に慌てふためき、彼女が定期的に宿に打つ電報をたよりに夏子捜索の珍道中の旅に出ることとなった。夏子は途中、白老のY牧場の厩舎番牧夫の娘・16歳の不二子に嫉妬しながらも、毅と恋仲になっていき、熊を仕留めたら結婚することを約束した。やがて2人を追って、猟友会の札幌支部長・黒川や夏子の母たち、札幌タイムス社の野口も蘭越近くの村のコタナイへやって来た。一行は村長別宅に集まり、熊が出そうなコースの確認や計画を練った。夏子も村田銃を持ち、毅と一緒に家の裏手の緬羊小屋を見張った。母、伯母、祖母らが村長別宅に残り、茶菓子などを食べている時、熊が家の中に入って来た。彼女らは失神してしまったが、熊はそのまま家を出て緬羊小屋に来た。そして毅が見事、四本指の大熊を仕留めた。
一件落着し、母たちも毅と夏子の結婚に大賛成し、2人は幸せだった。しかし、帰りの船の甲板で毅が話すことは、重役になったらアメリカに行こう、自動車を買おうなどという凡庸な所帯じみた将来の結婚生活の夢であった。夏子はロビーに行き荷物から時間表を取り出し、函館行きの船の時間を調べ始めた。そして、いぶかる母たち3人に向かって、「夏子、やっぱり修道院へ入る」と言った。
『夏子の冒険』は軽いタッチの恋愛コメディの娯楽小説として楽しめる作品で、冒頭から突然ヒロインが修道院入りを決意するという突飛な展開に特徴がある。少女小説や古典文学では、波乱万丈の運命に翻弄された末、ヒロインが世を儚んで修道院や尼寺へ入るという結末は珍しくはないが、『夏子の冒険』では「出家の決意」から物語が始まって結末へ向かっていくところに独自性がある[10]。
夏子の願望は、『仮面の告白』の〈私〉や、『愛の渇き』の悦子の欲望を反復して発展させたものだと見ている千野帽子は[10]、夏子が前半で見せていた「わけのわからないことをする人物」の魅力が中盤において、恋敵の不二子に嫉妬したりするなど、「わけのわかることをする女」となり、逆にミステリアスな不二子の方が魅力的に描かれるが、最後のどんでん返しで再び夏子が「わけのわからないことをする女」となり、「正→反→合」の作用を物語に与えていると解説している[10]。
木村康男は、夏子が「熊狩りという冒険」に恋し、自身の情熱の対象が「〈ますらおぶり〉を喪失した男性にはないこと」に気づくという主題を解説しつつ、「恋の本質は冒険であり、冒険の終わる時に恋も終わる」としている[1]。松本鶴雄は、「井田を見る夏子の眼に三島のロマンチシズムとイロニーが横溢している」と解説している[12]。
十返肇は、『夏子の冒険』発表から約3年後に、「若く溌溂とした夏子の魅力」は、そのまま、作者・三島の魅力だとし、以下のように解説している[13]。
死を決意した彼女の演ずる生への冒険を、三島由紀夫は心にくいまでにまでに巧みに描いてゆく。彼女をめぐる風変りな環境は私たちを笑はせ、彼女が燃やす恋の情熱は私たちを蠱惑する。原始的な風土の中で都会娘夏子は冒険の結果、生きる歓びを知る。若い女性の読者は、みんな自分の中に一人づつ夏子が棲んでゐることを痛感するであらう。そして、新しい青春の生き方をここに見るに違ひない。 — 十返肇「青春の生き方」[13]
『夏子の冒険』は2000年代以降、村上春樹の『羊をめぐる冒険』(1982年)との関係性で文学的に論及されることも多く、佐藤幹夫は、村上が「熊をめぐる冒険」である『夏子の冒険』から『羊をめぐる冒険』を着想し、〈女秘書のやうなまじめな顔つきになつて拝聴〉する夏子に相当するのが、「耳のガールフレンド」だとし、〈導き〉という言葉や、今や村上の専売特許となっている〈やれやれ〉という言葉も、すでに三島がこの作中で使っていることを指摘している[7]。
高澤秀次もまた、村上の『羊をめぐる冒険』は三島の『夏子の冒険』の「書き換え」であると唱え[8]、大澤真幸も、高澤秀次の論を敷衍して、三島と村上の関連について論じ、「三島の自殺こそ、理想の時代の行き詰まりに対する、最も先鋭な行動である。このことを考慮すると、三島と村上のこうした繋がりは、実に暗示的である」と述べている[9]。
大澤真幸は、夏子の〈冒険〉が、「〈植民地〉的なエキゾチシズムを誘う土地」である北海道に向けられることに着眼し、東京(の青年)に倦怠していた夏子が、修道院への旅の途上、仇討ちの青年に共鳴し、「逆説的な仕方で、冒険(理想)を発見」することを、「〈復讐〉というネガティヴな形態でのみ、理想が活きているのだ」とし、以下のように考察している[9]。
したがって、青年が熊を倒したとたんに、夏子の青年への情熱は醒めてしまう。三島のこの小説は、すでに、理想を理想として維持することの困難を表現していると解釈することができる。この約20年後に三島は、実際に、理想の時代の破綻を自らの自殺をもって体現することになるわけだが、そこへと向かう問題意識は、この時点で、無意識の内に孕まれていたとも言えるだろう。 — 大澤真幸「不可能性の時代」[9]
そして大澤は、村上が『羊をめぐる冒険』の冒頭の章「1970/11/25」で、三島事件を、〈我々にとってどうでもいいこと〉としてのみ言及していることについて、「無論、それは〈どうでもいいこと〉ではないからこそ言及されるのである」とし[9]、主人公の〈彼〉が、二人の女性の死を契機に、やはり『夏子の冒険』同様、北海道への冒険に出ることを指摘しながら、以下のようにまとめている[9]。
「我々はおだやかな、引き伸ばされた袋小路の中にいた」という表現が示唆するように、『羊をめぐる冒険』は、冒険の──理想主義的なユートピアの──不可能性をめぐる冒険である。この自己言及的・自己否定的な冒険の内容は、複雑をきわめるが、目下の文脈において重要なことは、小説のタイトルが暗示しているように、それが、幻想的でフィクショナルな冒険という形態を取っていることである。要するに、村上の『羊をめぐる冒険』は、三島から直接にバトンを受け取るように小説を書き、三島の作品の中に孕まれていた可能性を徹底させることで、理想から虚構への移行を果たしているのだ。 — 大澤真幸「不可能性の時代」[9]
『夏子の冒険』(松竹大船作品)。1953年(昭和28年)1月14日封切。カラー・スタンダード 1時間35分。この年度の興行収入第4位となった[14][15]。『カルメン故郷に帰る』に続く、日本製カラー劇映画第2作として当時注目を浴びた[16]。中村登監督は、「ライトに桃色や青のフィルターをかけて室内と野外のちがい」を出したと語り[17]、スタッフが技術的な打合せのために渡米するなど、かなり苦労したという[18][16]。撮影現場のセットには、三島も訪問していた[16]。