堀内 一雄(ほりうち かずお、1893年9月13日 - 1985年12月11日)は、日本の実業家、政治家、陸軍軍人。衆議院議員(5期)。父は堀内良平、息子は堀内光雄。最終階級は歩兵少佐[1]、満洲国陸軍少将[2]。勲等は勲一等瑞宝章。
来歴
山梨県出身。軍人好きであった父・良平の影響を受け[3]、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業[4]。1925年11月、陸軍大学校(37期)卒。参謀本部ではイギリスを担当する英班に配属されるが、赴任を待てず良平に資金を出してもらい世界一周に出かけた結果、軍人に嫌気がさし帰国と同時に退官を申し出た[3]。石原莞爾などの説得により思いとどまり[3]、陸軍少佐まで進み第9師団参謀を務めた[1]。その後、満洲国陸軍少将となった際には、満人になりきるつもりで「満良」と名を改めた[3]。第1軍管区参謀長、満洲国総務庁弘報処長、安東省次長兼大東港建設局長を歴任[2]。
1942年の第21回衆議院議員総選挙では山梨県から翼賛政治体制協議会の推薦を受け初当選。1945年7月に召集され、衆議院議員を退職。間もなく終戦となり、直ちに復帰する[5]。戦後、推薦議員のため公職追放となる。追放中は富士山麓電気鉄道(現・富士急行)では専務として務めたが、実権はなく家庭では「何にもセンム」と自虐していたという[3]。1947年には同社の社長に就任する。追放解除後の1955年の総選挙で日本民主党から立候補して当選。第1次岸改造内閣で建設政務次官に就任。国会内では衆議院外務委員長を務めた。1962年に富士急会長に就任。1969年からはテレビ山梨の社長を務め、1973年から1981年まで会長を務めた。1973年、勲一等瑞宝章受賞。1985年死去。
逸話
代々日蓮宗徒であった堀内家において一雄の信仰も篤かった。山梨県富士吉田市上吉田にある経ヶ岳八角堂は、日蓮自らが1269年に埋経した史跡であるが、1952年にのちの身延山八十六世法主となる藤井日総が訪れた際には荒廃甚だしかった。そこで当時富士山麓電気鉄道社長を務めていた一雄と諮り、一雄は富士山三合目まで伸びていたバス道路を難工事の末五合目まで延長し、現在の常唱殿を復興させたという[6]。
家族・親族
堀内良平の業績を顕彰した本である『富士を拓く』によると、「堀内家は甲斐源氏の祖である源清光にまで遡ると、清光の子、逸見光長の系譜が堀内を名乗るようになった」としている。また同著には、鎌倉期の1282年(弘安5年)9月11日、病を得て湯治に向かうため身延山を下りた日蓮が堀内家に立ち寄ったとの記載もある。
親族
系譜
脚注
- ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版、578頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』573頁。
- ^ a b c d e 城山三郎 (昭和39年). “企業者列伝 前途洋々 富士急行社長 堀内光雄”. ダイヤモンド投資生活 3月号: 176-181.
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、578、626頁。
- ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』503頁。
- ^ “小伝馬町 身延別院”. minobu-betsuin.jp. 2023年11月16日閲覧。
参考文献