名鉄谷汲線
谷汲線(たにぐみせん)は、岐阜県揖斐郡大野町の黒野駅から同郡谷汲村(現揖斐川町)の谷汲駅までを結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。谷汲鉄道により開通した。
運賃計算区分はC(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.25倍)。
本記事では、かつてこの路線を運営していた谷汲鉄道(名古屋鉄道に合併)についても述べる。
路線データ
※特記なければ路線廃止時点のもの。
- 路線距離(営業キロ):11.2 km
- 軌間:1,067 mm
- 駅数:9駅(起終点駅含む)
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:全線電化(直流600 V)
- 閉塞方式:票券閉塞式(黒野駅 - 北野畑駅間)、スタフ閉塞式(北野畑駅 - 谷汲駅間)
- 平時は双方をまとめた併合閉塞(一閉塞)としていたが、毎月18日の谷汲山命日や行楽シーズンの列車増発時には北野畑駅に運転要員を派遣し、併合を解除して基本の二閉塞として運行した。票券は谷汲行き増発列車第一便の前に発車する定期列車と黒野行き増発列車最終便に対して発券されていた。
運行形態
すべて、普通列車のワンマン運転であった。朝の6 - 8時台では、黒野駅 - 谷汲駅間で30分間隔で毎時2往復、その他は終電まで60分間隔で、毎時1往復運転されていた。ただし、毎月18日と行楽シーズンの特定日、廃線間際には、臨時列車数往復が増発され、日中(11時 - 15時)も毎時2往復運転されていた。この臨時列車には車掌も乗務していた。単線のため、30分間隔で運行する時は途中、北野畑駅で列車の行き違いを行っていた。なお末期は朝夕も50分間隔となり、特定日以外の北野畑駅での行き違いを行わなくなっていた。
使用車両
1984年(昭和59年)のワンマン運転開始以降について記す。基本的に揖斐線と共通だが、揖斐線用車両のうち、モ770形・モ780形は一度も使用されなかった。当初は冷房付きのモ770形・モ780形も乗り入れる予定であったが、谷汲線の電力は揖斐線からの受電に頼っていたため、変電所から遠くなる末端区間での架線電圧が不足(架線電圧が本来の規定600 Vに対し、谷汲線末端では300 - 400 Vまで落ちた)して断念したという。一方、戦前製旧型車は構造上、電圧降下した条件下でも運転を続行できたため、揖斐線黒野以北ともども最後までこれらの形式が用いられる結果となった。
歴史
前史(谷汲鉄道時代)
地元の名刹である谷汲山華厳寺の巡礼客の交通の便の確保と根尾方地方の開発を目的として揖斐郡大野村と谷汲村間の鉄道敷設が1922年(大正11年)5月に申請された。続いて6月に揖斐郡大野村-安八郡神戸町間(養老鉄道広神戸駅)の鉄道敷設も申請した。これに賛同した稲富村出身の井深重剛は線路予定地に所有する土地[2]を無償提供するなど私財を投じ、鉄道敷設計画を支援した。1923年(大正12年)2月に鉄道敷設免許状が下付された[3]が、関東大震災発生直後の不況の懸念と揖斐川架橋問題から広神戸駅延長は断念せざるをえなかった[4][5]。
1924年(大正13年)1月谷汲鉄道が設立され、本社は大野村大字黒野に置き、社長には井深が就任した。また美濃電気軌道も出資し、同社から3名が取締役に就任した。工事は1927年(昭和2年)の谷汲山華厳寺十一面観世音菩薩御開帳(以下、「御開帳」とする)に合わせるべく昼夜兼行ですすめられ、1926年(大正15年)4月に全線が開業することができた。そして盛大な開通式から5か月後に建設の陣頭指揮をとり開業に奔走していた井深が急死するというアクシデントがあったが、同じ4月6日に北方町 - 黒野間を開業した美濃電気軌道との直通運転を9月1日より開始した。これにより岐阜駅からは市内線、忠節橋駅 - 忠節駅徒歩連絡、忠節駅 - 谷汲駅と1時間半で結ぶことになった。
1927年(昭和2年)4月から5月にかけての御開帳に備え車両6両(デロ7形電車)を発注し、稲富駅を新設して交換設備を増やした。これにより多客時の3両編成20分ヘッド運転を可能にした。御開帳期間の乗客数は飛躍的にふえて積み残しがでるほどであった。ところが御開帳がおわると乗客数は減少。昭和金融恐慌の時期にあたり業績は悪化、政府補助金によりかろうじて経営を維持していた。
1930年(昭和5年)には美濃電気軌道が業績悪化により名古屋鉄道(名岐鉄道)に合併された。谷汲鉄道は1933年(昭和8年)におこなわれた華厳寺の御開帳による輸送により好成績をあげたものの、終了後はまた乗客数は減少。1935年(昭和10年)に乗合自動車業(黒野 - 神戸 - 三ツ屋間[6])をはじめるものの、成績は芳しくなかった。1936年(昭和11年)の華厳寺の御開帳でも好成績をあげたが、7月には名古屋鉄道の事実上の子会社となり1937年(昭和12年)藍川清成が代表取締役に就任した[7]。
年表
駅一覧
- 全駅岐阜県に所在。
- 駅名・接続路線名は廃止時点、所在地は路線廃止時点のもの。
- *印の駅は路線廃止前に廃止された駅(廃止日は歴史参照)
- 廃止前時点では普通列車のみ運行。全列車、各駅に停車。
輸送・収支実績
谷汲鉄道
年度
|
輸送人員(人)
|
貨物量(トン)
|
営業収入(円)
|
営業費(円)
|
営業益金(円)
|
その他損金(円)
|
支払利子(円)
|
政府補助金(円)
|
1926 |
368,773 |
706 |
52,670 |
44,519 |
8,151 |
償却金1,745雑損17 |
12,010 |
36,435
|
1927 |
520,814 |
1,069 |
103,565 |
66,823 |
36,742 |
償却金5,625 |
13,498 |
28,117
|
1928 |
259,205 |
988 |
37,009 |
35,883 |
1,126 |
償却金2,506 |
13,421 |
43,523
|
1929 |
257,344 |
1,001 |
36,441 |
33,399 |
3,042 |
償却金33,000 |
11,140 |
43,449
|
1930 |
174,496 |
144 |
26,993 |
25,842 |
1,151 |
償却金32,000 |
8,567 |
42,067
|
1931 |
139,746 |
58 |
23,186 |
25,706 |
▲ 2,520 |
償却金25,000 |
7,047 |
34,002
|
1932 |
137,395 |
968 |
21,007 |
27,069 |
▲ 6,062 |
償却金25,000 |
6,036 |
36,428
|
1933 |
338,971 |
44 |
59,691 |
50,041 |
9,650 |
償却金35,000 |
4,160 |
34,738
|
1934 |
131,911 |
52 |
17,775 |
28,583 |
▲ 10,808 |
償却金25,000 |
1,961 |
36,884
|
1935 |
173,540 |
63 |
21,863 |
28,567 |
▲ 6,704 |
償却金29,000自動車2,765 |
784 |
35,640
|
1936 |
345,270 |
4,705 |
53,321 |
44,282 |
9,039 |
自動車1,450 |
|
|
1937 |
145,110 |
14,927 |
27,594 |
27,027 |
567 |
雑損償却金5,497自動車1,031 |
|
7,060
|
1939 |
200,252 |
13,190 |
|
|
|
|
|
|
1941 |
338,943 |
1,124 |
|
|
|
|
|
|
1943 |
584,296 |
4,599 |
|
|
|
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|
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- 鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
- 1927年、1933年、1936年の4月1日-5月20日谷汲山華厳寺十一面観世音菩薩御開帳
脚注
- ^ a b c d e f 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 井深家所有の土地だけで黒野から更地近辺までつながったという
- ^ a b 「鉄道免許状下付」『官報』1923年2月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 「起業目論見変更」『官報』1924年1月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 同ルートが1927年(昭和2年)揖斐川電気に対し免許状が下付されたが翌年失効している。(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 後に大垣自動車(現名阪近鉄バス)譲渡され現在の大垣大野線の一部となっている
- ^ 本社名古屋『日本全国諸会社役員録。 第47回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 第32回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年4月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 大島一朗『谷汲線 その歴史とレール』岐阜新聞社、2005年、27頁。ISBN 978-4877970963。
- ^ 大島一朗『谷汲線 その歴史とレール』岐阜新聞社、2005年、36-37頁。ISBN 978-4877970963。
- ^ 大島一朗『谷汲線 その歴史とレール』岐阜新聞社、2005年、50頁。ISBN 978-4877970963。
- ^ 大島一朗『谷汲線 その歴史とレール』岐阜新聞社、2005年、53頁。ISBN 978-4877970963。
- ^ 『名古屋鉄道百年史』958頁
- ^ 『名古屋近鉄バス50年の歩み』11頁
- ^ 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 7 東海、新潮社、2008年、53頁。ISBN 978-4-10-790025-8。
- ^ 大島一朗『谷汲線 その歴史とレール』岐阜新聞社、2005年、70頁。ISBN 978-4877970963。
- ^ 大島一朗『谷汲線 その歴史とレール』岐阜新聞社、2005年、77頁。ISBN 978-4877970963。
- ^ 大島一朗『谷汲線 その歴史とレール』岐阜新聞社、2005年、89頁。ISBN 978-4877970963。
参考文献
- 大島一朗『谷汲線 その歴史とレール』岐阜新聞社、2005年
- 『名古屋鉄道社史』1961年、315-316頁
関連書籍
関連項目
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