合羽摺 (かっぱずり)とは、日本 における浮世絵 版画 での彩色法である。
合羽摺前史
菱川師宣の「春本」から一丁(2ページ)が外れたもの。版本名は不明。墨摺絵筆彩色。1680年頃。挿絵人気により、テキストが上4分の1に追いやられるのが、版本から一枚摺に移行する時代の特徴である。スミソニアン ・フリーア美術館 蔵。
木版画 は単色摺が基本である。だが、上客からの要望もあり、彩色化が図られるようになる。最初は、摺った後に筆 で着彩する方法が取られた。
安房国 の縫箔[注釈 1] 屋出身で、17世紀後半の江戸 で活動した、菱川師宣 の場合、版本 や、「揃い物」[注釈 2] に、着彩されている墨摺絵 が現存する。その後、1741-42年(寛保元-2年)に、色版を用いた紅摺絵 が、そして、1765年(明和2年)には、鈴木春信 による多色摺、錦絵 が登場する。
一方、師宣以前の上方 、つまり大坂 と京 は、「洛中洛外図屏風 」や「寛文美人図 」等、「近世風俗画 」が盛んに描かれたが、これらが「上がりもの」として江戸 に持ち込まれることによって、師宣の歌舞伎 絵・美人画 ・春画 を生むきっかけとなった。上方でも、版本から一枚摺が生まれ、墨摺絵に筆彩色する過程は同じだが、その次に登場したのが「合羽摺」であったのが、江戸との違いである。
合羽摺の手法と長短所
有楽斎長秀 「祇園 神輿あらひ ねり物 先はやし 花菱屋 咲江」、1813-25年頃。上方合羽摺において、長秀の現存数が最も多い。
「主版」(おもはん)、つまり最初に摺る輪郭線は版木 を用いるが、色版は、防水加工した紙を刳り抜いて型紙とし、墨摺りした紙の上に置き、顔料をつけた刷毛 を擦って彩色した。色数と同じだけの型紙を必要とする。防水紙を使用することから、「合羽 」と呼ばれる。
合羽摺の利点は、加工が容易であり、コストが安く、納期が早い、馬連 を用いないので、錦絵 より薄く安価な紙が使用できる点である。
逆に欠点は、版木摺ほど細密な表現が出来ない、色むらが出やすい、重ね摺りすると、下の色は埋もれてしまう(版木の場合は、下の色を透かすことが可能。)、切り抜き箇所の縁に顔料が溜まりやすい、型紙が浮き上がり、顔料が外にはみ出すことがある、型紙を刳り抜くため、その内部に色を入れたくない部分がある場合は、「吊り」と呼ばれる、色を入れる箇所の一部を切り残す必要がある[注釈 3] 、安価な紙を用いた為、大切にされず、現存数が少なくなっただろう点である。
上方の合羽摺
伊藤若冲『花鳥版画』の内、「薔薇 と鸚哥 図」。大英博物館 蔵。明治期の翻刻版。平木本での樹幹の彩色・吹付けは合羽摺による。
合羽摺の登場は、享保年間(1716-36年)の絵本 『聖泰百人一首』扉絵とされる。蘇州版画 からの影響[注釈 4] か、友禅 染の型紙 の転用から生まれたと言われる。しかし、それ以前に、大津絵 で合羽摺が採用されていたとの論があり、また他分野からの影響ではなく、職人なら自身で開発できるだろうとの仮説もある。
上方では、1813年(文化10年)頃に、江戸の錦絵が流入した後でも、合羽摺が併存し、1887年(明治20年)頃まで存続した。
画題は役者絵 と「練物(ねりもの)[注釈 5] 」が大部分で、判型は、錦絵が大判もしくは中判[注釈 6] が主流なのに対し、合羽摺は細判[注釈 7] が多い。
浮世絵師 ではないが、伊藤若冲 の『花鳥版画』(1771年(明和8年)、平木浮世絵財団 は6種所蔵。)は、木版摺と合羽摺の併用とされている。黒地部分は、裏から馬連 跡が見えるのに対し、彩色部は馬連 跡が在る箇所と無い箇所がある。刷毛ではなく筆を使用し、濃淡を変化させたり、顔料を吹くなど、高度な技術が投入されている。若冲は、親族に西陣織 業者が居り、そこから友禅染の援用を思いついたのではと、山口真理子は指摘する[注釈 8] 。
長崎の合羽摺
「火喰鳥 」。作者不明、1800年頃。大英博物館蔵。
長崎絵 でも、合羽摺が用いられた。
唐 人は新年を祝う為、唐寺 で摺られた「年画 」を家屋に貼る風習があり、それが周辺に住む日本人にも受け入れられ、江戸や上方とは異なり、版本から一枚絵に展開する過程を必要としなかった。
現存する「長崎絵」最古のものは、寛保から寛延年間(1741-1751年)とされ、そのころから墨摺絵に手彩色することが始まり、天明年間(1781-1801年)頃に合羽摺が行われるようになる。
天保年間(1830-44年)初頭、渓斎英泉 の門人である、磯野文斎 が版元「大和屋」に婿入りし、後に彫師 ・摺師 を江戸から招くことにより、錦絵が齎された。但し他の版元では、合羽摺版行が続いた。
画題は、江戸や上方と異なり、オランダ 人や唐人の風貌や装束、彼らの風習、帆船 や蒸気船 、珍しい動物、出島 図や唐人屋敷 、唐寺など、長崎特有の異国情緒を催すものが描かれた。
1858年(安政5年)の日米修好通商条約 締結後、外国人居留地 の中心が横浜 に移ることにより、1860年(安政7・万延元年)には横浜絵 が隆盛し、文久年間(1861-64年)頃に、長崎絵の版行は終わったとされる。
脚注
注釈
^ 装束 に刺繍 をし、金銀箔を捺し貼ること。
^ 一枚摺が登場する前の、組売り版画。12枚揃いが多かった。
^ フィルム 時代の映画 字幕 、「パチパチ文字」と同じ手法である。“シネマフォント®の種類 ”. 2020年7月3日 閲覧。
^ 樋口弘は、蘇州版画にも合羽摺があったことを指摘している。蘇州 版画は明 朝初めから制作されている。
^ 祭礼時に山車 を引いたり、集団で練り歩く事。
^ 前者は、大奉書紙 を縦に二等分した大きさ。約39×26.5センチ。後者はその半分の約26×19センチ。
^ 小奉書紙を縦に三等分した大きさ。約33×15センチ。
^ ジャン=ガスパール・パーレニーチェクは、ヨーロッパでジャポニスム を引き起こした日本工芸 品として、浮世絵版画以外に、尾形光琳 を顕彰した、中村芳中 ・酒井抱一 らの版本と、染色 用型紙を挙げている。型紙本来の用途ではなく、陰陽が逆転した像として、鑑賞対象になったのである。
出典
参考文献
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関連項目
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