古和釜町(こわがまちょう)は、千葉県船橋市の地名。丁番を持たない単独町名である。郵便番号は274-0061[2]。
北北西で金堀町、北西で楠が山町、西で大穴北、北東で八千代市吉橋、緑が丘西、東で坪井町、南で松が丘と隣接する。近年では宅地化が進んでいるが、北部を木戸川が、東部を桑納川が流れ、稲作と畑作が広く営まれている。
古和釜地区の始まりは平安時代の頃だとされ、大和国(現在の奈良県)から移民してきた人びとによって切り開かれたと言われている。
また、中世には下野国足利(現在の栃木県足利市)の領主であった源義康の子・源義道(後に石神隼人と改名)が移り住み、小穴城(別名・古和釜城)を築城したという伝承も残る。現在の調査によると本地区に関する最も古い資料は、東光寺から出土した1391年(明徳2年)銘の石塔の一部であり、南北朝時代には既に集落が存在していたと思われる。
江戸時代になると1660年代(寛文年間)頃には一時、下野国皆川藩領(現在の栃木県栃木市皆川地区に存在した藩)となり、続いて旗本の松平氏の知行地とされた。
明治時代になると、1889年(明治22年)には豊富村の大字となり、1955年(昭和30年)に船橋市古和釜町となった。そして、1973年(昭和48年)には、古和釜地区の一部が松が丘地区といて分離独立した。
戦後、高根台団地が造成される1961年(昭和36年)の時点までは、古和釜の町域は現在の高根台三丁目にまで及んでいた。同団地に触発される形で当時の古和釜町の南部一帯が宅地化、人口が急増していった。その結果、1973年(昭和48年)3月1日付でこの古和釜町南部に住居表示が施行され、松が丘一〜五丁目及び高根台三丁目として独立[4]。比較的宅地化が進行していなかった北部地域は古和釜町のまま現在に至る。古和釜町が開拓される以前の江戸時代初期には伊勢神宮の神領や千葉氏の領地、江戸時代末期には徳川幕府と松平氏の領地であったことが伝えられている。[5]
桑納川と木戸川の合流地点付近に、人間の胸のあたりまで没する窪地(穴=釜)があり、その周辺が奈良県の古和から移住してきた人々によって開かれた土地であったため古和釜と呼ばれるようになった。[6]全国各地に存在する 古和清水(子和清水)の伝説とは関係性がない。
2017年(平成29年)11月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]。
本町三丁目 | 湊町 | 浜町 | 若松 | 日の出 | 西浦 | 栄町 | 潮見町 | 高瀬町
宮本 | 市場 | 東船橋 | 東町 | 駿河台 | 本町(三丁目を除く) | 南本町 | 海神 | 海神町 | 海神町東 | 海神町西 | 海神町南 | 南海神
山野町 | 印内町 | 葛飾町 | 本郷町 | 古作 | 西船 | 印内 | 東中山 | 二子町 | 本中山
旭町 | 前貝塚町 | 行田町 | 行田 | 山手 | 北本町 | 丸山 | 藤原 | 上山町 | 馬込町 | 馬込西
夏見 | 夏見町 | 夏見台 | 米ケ崎町 | 高根町 | 金杉町 | 金杉 | 金杉台 | 緑台
前原東 | 前原西 | 中野木 | 三山 | 田喜野井 | 習志野
二宮 | 飯山満町 | 滝台町 | 滝台 | 薬円台 | 薬園台町 | 七林町 | 習志野台 | 西習志野
高根台 | 芝山 | 新高根
二和東 | 二和西 | 三咲町 | 三咲 | 南三咲 | 八木が谷町 | 咲が丘 | みやぎ台 | 八木が谷 | 高野台 | 松が丘 | 大穴町 | 大穴南 | 大穴北
小室町 | 小野田町 | 大神保町 | 神保町 | 車方町 | 鈴身町 | 豊富町 | 金堀町 | 楠が山町 | 古和釜町 | 坪井西 | 坪井東 | 坪井町
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