フランス帝国
戦死者:25,000名のゲリラ[6]1810年12月 – 1814年5月: 戦死者:35,630名[7] 病死者:24,053名[7]
死者 180,000-240,000名[6] (戦死者 91,000名[6])
半島戦争(はんとうせんそう、1808年 - 1814年、英語: Peninsular War、ポルトガル語: Guerra Peninsular)は、ナポレオン戦争中にイベリア半島でスペイン軍、ポルトガル軍、イギリス軍の連合軍とフランス軍との間に戦われた戦争である。日本ではスペイン独立戦争[8](スペイン語: Guerra de la Independencia Española)またはスペイン反乱[注釈 3]としても知られている。スペイン戦争(フランス語: Guerre d'Espagne)、フランス戦争(カタルーニャ語: Guerra del Francès)とも呼ばれる。
戦争はイベリア半島の性質に大きく左右された。土地が貧しいイベリア半島では大軍が侵攻しても侵攻先での兵糧が確保できないためその軍を養うのが難しく、フランス軍は最大時で30万を数えたものの、軍を集結させることができなかった。小部隊による幾つかの地域で限られた期間での戦闘を求められ、決定的な結果を出すのには困難を極めた。
この戦争はスペインとポルトガルの社会的、経済的構造を破壊し、1850年まで続く大規模な内戦と半島戦争で訓練された将校に導かれた荒れ狂う解放の時代の先駆けになった。また、この戦争を契機として両国の植民地だったラテンアメリカに独立運動が起きた。
1806年にナポレオン1世は、大陸諸国にイギリスとの通商を禁じる、大陸封鎖令をベルリンで宣言した[9]。しかし、中立を維持する2つの国(スウェーデンとポルトガル)は、ナポレオン1世の通牒を拒否した為、ナポレオン1世は武力をもってこの両国に大陸封鎖令を強制しようと画策し始めた。1807年のティルジット条約の後、スウェーデンはロシアと戦うことになり、ナポレオン1世は残るポルトガルの攻略を決定した[10]。
1807年10月27日、スペイン首相のマヌエル・デ・ゴドイとフランスは、フォンテーヌブロー条約に調印し、ポルトガルは北ルシタニア王国、アルガルヴェ侯領(アレンテージョ地方を含めて拡大した)、および残りのポルトガル王国の、3つの領域に分割されることとなった[11]。
スペインおよびポルトガルの人々のリベラル派、共和派、急進派の間には、ナポレオン1世が1807年までにリベラルと共和制の思想を著しく明確に放棄していたにもかかわらず、フランスの侵攻に対する潜在的な期待があった。侵攻以前でさえ、「フランスびいき」を意味する「アフランセサド(Afrancesado)」という用語が、啓蒙主義的思想とフランス革命を支援する者を指して使用されていた[12]。ナポレオン1世にとっては、戦争と国の政権の指揮のために彼ら「アフランセサド」の支援は頼るべきものであった。しかしナポレオン1世が、スペイン王に据えた兄ホセ1世を通して、封建的である聖職者の権限を「一掃する」ことを有言実行した一方で、すぐにほとんどのスペインのリベラル派は、それがもたらした暴力と残虐行為のために占領に反対するようになった[13]。
1807年11月、ポルトガル摂政であったジョアン王子(後のジョアン6世)が大陸同盟への参加を最終的に拒絶したのを受けて、ナポレオン1世はジャン=アンドシュ・ジュノー指揮する部隊にポルトガル攻略を命じ、スペインに送った。同時に、ゴドイ首相がナポレオン1世の委任を受けて、デュポン将軍率いる部隊をカディス方面に送り、スールト将軍の部隊をコルナ方面に送った。ポルトガル占領と艦隊奪取を目論んでいたのはゴドイも同じで、スペイン軍2個師団をフランス軍と合流させている。両軍の侵攻に対し、ポルトガルの首都リスボンは、守備隊がイギリス軍の攻撃から港湾と海岸を護るのに配置されていたため、抵抗もないまま、12月1日に攻略された。しかしすでに11月29日にポルトガル女王マリア1世と摂政ジョアン王子本人、そして6,000人もの人々(艦隊の9,000人の船員がそれに加わった)が艦船に乗って逃亡しており、ジョアン王子にブラジル(英語版)を含む海外の植民地の統治の継続を可能とした。それはナポレオン1世にとって大きな打撃となり、そのことはセント・ヘレナ島の記念碑に「これが私を滅ぼした。(フランス語: C'est ça qui m'a perdu.)」と記されている。
仏西両軍のポルトガル占領を補強する口実として、ナポレオン1世は、軍をスペインの要衝に派兵し始めた。結果パンプローナとバルセロナが1808年2月に占領された。外国軍の進駐を受けたスペインでは貴族たちによる政変が発生、カルロス4世は退位し、彼が用いていたゴドイは失脚、代わってその長男がフェルナンド7世として即位した。それを受けたナポレオン1世は、スペイン王家をバイヨンヌに追放して、5月5日に親子2人共に退位を強制し、スペイン王位を自らの兄ジョゼフに与えたのである(ホセ1世)。傀儡となっていたスペイン議会はこの新王を承認した。ホセ1世が改革を断行するためにスペイン統治を強化しようとすると、フランス人支配を嫌う人民の反乱を引き起こすことになった。5月2日、マドリードの市民は、フランスの占領に対して、暴動を起こした。マドリードの蜂起はミュラによって粉砕されたが、この蜂起はスペイン全土に広がった[14]。
それまでイギリスは海戦では輝かしい勝利を何度も収めたものの、大陸における陸戦で中途半端な“へま”と相次ぐ敗戦で(1809年のワルヘレン遠征を最後に)面目を失うというのが特徴だった。強力な同盟なしではイギリス陸軍はフランスに対して勝利は望めず、イギリスはいまだヨーロッパ大陸に足がかりを築けないでいた。そういうわけで、ポルトガルはナポレオン1世との戦争でイギリスが支援するのを拒否したのである。
スペイン軍は、7月16日から19日にかけてのバイレンの戦いでピエール・デュポン指揮するフランス軍に対し劇的な勝利をおさめ、15,000人以上の捕虜を得た。この戦いでホセ1世はマドリード撤退を余儀なくされた[14]。6月18日にはポルトガルでも反乱がおきた。ポルトガルとスペインでの人民の反乱は、イギリスに介入の誘惑を掻き立て、「王侯貴族でなく人民が『大いなる侵略者』に反乱を起こした」というイギリスの宣伝通り、これまでのナポレオン戦争ではなかった展開を見せることになる。
1808年8月にイギリス軍は少将サー・アーサー・ウェルズリー指揮のもと、ポルトガルに上陸した。ポルトガルのベルナルディン・フレイレ・デ・アンドラーデ(英語版)将軍率いる前衛部隊がルイ=アンリ・ロワソン(英語版)将軍率いるフランス軍の一隊を阻止している間に、8月17日にウェルズリーの本隊はドラボルドゥ将軍指揮下のフランス軍をロリーサの戦いで破った。8月21日に英葡両軍はジュノー将軍指揮のフランス軍と激戦を交えた。ウェルズリーの注意深い管理、強い指導力そして妥当な戦略により、英葡軍は、戦線を維持するフランス軍とその同盟軍をはねのけた。しかし、その勝利にもかかわらず、ウェルズリーの若さは、ポルトガルに新たに補強された遠征隊を指揮するには適格でないとみなされ、その地位はハリー・バラードが取って代わった。バラードの死後はヒュー・ダルリンプルが任命された。一連の勝利で、物議を醸したシントラ協定に基づき、1808年8月、ポルトガルからフランス軍が撤退することになった。イギリス軍の司令官は、3万の精鋭を率いるサー・ジョン・ムーアを残して、協定調査のために本国への帰還を命じられた。
英葡軍とスペイン軍が勝利したことで、ナポレオン1世自身がイベリア半島に20万の兵を率いて行くことになった。イギリス軍はブルゴス市近郊で迎撃した(ブルゴスの戦い(英語版))が、まもなく長い退却を強いられ、さらにサアグンの戦い、ベナペンテの戦い、カカベロスの戦いを挟みながら、フランス軍の追撃を受け、1809年1月にア・コルーニャから撤兵(コルーニャの戦い(英語版))して終わった。ムーアはア・コルーニャ市街防衛の指揮中に戦死した。こうしてスペインの大半がフランス占領下に置かれることになった[14]。ナポレオン1世は2ヶ月余りスペインに滞在し、元帥に指揮権を戻して自身はフランスに帰国した。
3月にスールト元帥は北の回廊地帯を通って2度目のポルトガル侵攻に取り掛かった。始めはミーニョ川でポルトガルの民兵に撃退されたが、シャヴェス、ブラガを攻略し、さらに1809年3月29日にポルトを攻略した。しかし、アマランテなどの都市におけるフランシスコ・ダ・シルヴェイラ(英語版)らの抵抗は、スールトの軍をオポルトにて孤立させ、スールトは北ポルトガルの王になるか、退却するかの賭けに打って出た。
その間、ナポレオン1世の勝利でスペイン軍を壊滅させたが、スペイン人をしてスペインにおけるフランスの敗北に大いに貢献することになるゲリラ戦法を開始させることとなった。ポルトガルでは「戦争大臣」ミゲル・ペレイラ・フォルハスがイギリスから送られた資金と兵力で国軍の再建を行っており、1806年から示してきた軍制改革が実行された。最初は2万人の常備軍と3万の民兵が召集されたが、後にこの数は常備軍5万、民兵5万に膨れ上がり、「オルデンナンサス」と義勇軍が加わった。
1809年4月にウェルズリーは英葡軍を指揮すべく、ポルトガルに戻った。そして、フォルハスと各地域の知事によって組織され、ベレスフォード将軍によりイギリス流の戦闘に合わせて改編されたポルトガルの連隊によって、イギリス軍を補強した。これらの新軍は5月10日から11日のグリホの戦いと5月12日のオポルトの戦いでスールトの軍を破った。北部の全都市がシルヴェイラによって攻略された。
ウェルズリーは、新占領地が気になるポルトガル軍から離れて、グレゴリオ・デ・ラ・クエスタ軍に合流すべく、スペインに進軍した。連合軍は7月27日から翌28日のタラベラ・デ・ラ・レイナの戦いでホセ1世率いるスペイン軍を撃破した。そこは、連合軍が、不安定さを露呈し、すぐさま西方へと撤退することとなった、高い代償を払って勝利を収めた場所であった。タラベラの戦いの勝利により、ウェルズリーはウェリントン子爵に叙された。この年、後にスペイン軍はオカナの戦いとアルバ・デ・トルメスの戦いで、惨敗を喫した。
スペイン軍との共闘がうまくいかなかったことと新しいフランス軍を怖れるようになり、ウェルズリーはポルトガル防衛を強化する決断を下した。リスボンを防衛するために、彼はネベス・コスタ少佐の計画を採用し、主要道と塹壕と土塁に沿って強力な堡塁線(162)を構築し、トレス・ベドラス線を形成した。
1811年7月にフランス軍はアンドレ・マセナ元帥率いる60,000の軍を以って再侵攻した。戦端はコアの戦いで開かれた。その後マセナは「ポルトガルで最悪の道」を辿った。9月27日のブサコの戦いで、有利な位置にいながら不注意な戦術で敗北を喫したが、英葡軍をトレス・ベドラス線まで撤退させた。10月14日のソブラルの攻撃の後で戦況が膠着状態に陥るほどに城塞は印象的なものだった。チャールズ・オマーンの記述によれば「10月14日濃霧の朝、ソブラルで『ナポレオンの潮』が最高潮に達し、そして引き潮が始まった」。ポルトガル人は前線で焦土作戦の対象となった。フランス軍は補給線の欠如と疾病のためについに撤退を余儀なくされた。
1811年初頭、同盟軍は新たなイギリス軍の到着で再度増強され、攻勢に転じた。フランス軍はカディスの包囲を解いた失策が一因となって3月5日のバロッサの戦いで敗北を喫し、マセナは5月3日から同月5日までのフェンテ・デ・オノーロの戦いが膠着状態に陥ると、ポルトガルから撤退した。マセナは25,000の兵員をポルトガルとの戦闘で失い、オーギュスト・マルモンと交代することになった。スールトはバダホスを威嚇するために南部から移動したが、ウィリアム・ベレスフォード率いる英葡軍とスペイン軍により5月16日アルブエラの戦いで追い返された。この血みどろの戦闘のあと、フランスは退却を余儀なくされた。
戦争は一時休戦し、数では優勢でもフランス軍は優位に立つことはできず、スペインのゲリラ活動による圧力が増していた。フランス軍は350,000を超す兵力がスペイン軍(L'Armée de l'Espagne)にいたが、その大半の20万を超す兵力が、実戦部隊よりもフランス軍の補給路防衛に当たって失われた。スペインでは戦時中に各地域に作られたフンタで構成される最高中央評議会(Junta Suprema Central)が、1810年からカディスにコルテスを召集し、自由主義的な「1812年のカディス憲法」の草案作りに取り掛かった[14]。
1812年の新年早々にウェルズリーはスペインへの同盟軍の再編を行い、1月19日にシウダー・ロドリーゴの城塞化された町を包囲、攻略し、バダホスを4月6日に高い代償を払った襲撃のあと同様に攻略した。両方の町は軍の略奪を受けた。7月17日、同盟軍はマルモンが進軍してきたのでサラマンカに進駐した。両軍はついに7月22日に遭遇した。サラマンカの戦いではフランスは壊滅的な敗北を喫した。ベレスフォード元帥は重傷を負った。フランス軍が再集結したため、英葡軍は8月6日マドリードに入城し、ポルトガルに撤退する前にブルゴスに進軍した。
フランスの起死回生の望みは、1812年の悲惨なロシア遠征失敗によって潰えた。対スペイン軍から3万の精鋭をロシア遠征に連れて行ったが増援と交代が尽き、同盟軍が1813年に攻勢に転じたため、フランス軍の優位は次第に維持し難くなった。
戦術的な動きとして、ウェルズリーは補給基地をリスボンからサンタンデルに移した。
5月末に英葡軍は北へと転じて、ブルゴスを奪取し、その際、英葡軍はフランス陸軍を側面から包囲し、ホセ1世をサドラ川の谷へと追いやった。6月21日のビトリアの戦いでホセ1世の65,000の軍は、53,000のイギリス軍、27,000のポルトガル軍、19,000のスペイン軍により退路が狭められた。ウェルズリーはフランス軍をサン・セバスティアンから追撃し追い払った。サン・セバスティアンの町は打ち捨てられ、火を放たれた。
同盟軍は退却するフランス軍を追撃し、ピレネー山脈に7月初めに到達した。スールトはフランス軍に命令を与え、反撃を始め、同盟軍の2人の将軍を翻弄しマヤの戦いとロンセスバリェスの戦いで快勝を収めた。だが、英葡軍に厳しく撃退され、勢いを失い、ついに7月28日から30日にかけてのソラウレンの戦いの同盟軍の勝利の後、敵の軍門に下った。
ピレネーの戦いと呼ばれるその週の戦いは、もしかしたらウェルズリーにとって最良のものであったのかもしれない。敵との数が拮抗し、ウェルズリーは補給路から極めて遠いところで戦っていたし、フランス軍はその領域を防御していたが、それでも戦争では稀な機動作戦、衝撃、砲火の組み合わせで勝利した。それは戦争の山場であり、このときウェルズリーはポルトガル陸軍を「同盟軍の闘鶏」と評した。
10月7日、ウェルズリーはドイツでの戦闘再開の報を受け取り、同盟軍は、ビダソア川を渡り、フランスの国境を越えた。
半島戦争はベラ峠、ニーヴルの戦い、バイヨンヌ近くのニーブの戦い(1813年12月10日 - 14日)、オルセの戦い(1814年2月27日)、トゥールーズの戦い(4月10日)で同盟軍の勝利で行われた。最後の戦いは、ナポレオン1世流刑後のものである。
この戦争中イギリスはポルトガル民兵とスペイン民兵を支援してフランスの大軍を釘付けにした。フランス軍との戦闘でイギリスの正規軍が用いる装備より安上がりだったことでイギリスはこれらに対し支援を行った。これは歴史上最も成功した非正規兵戦闘の一つであった。スペイン語でこの戦法をゲリーリャ(guerrilla:小さな戦争)と呼び、これがゲリラの語源になっている。この史上初の「ゲリラ」は、エスポス・イ・ミーナ、エル・エンペシナード、メリーノ司祭、エローレス男爵らが率いて、スペイン全土で対フランス軍活動を活発に行なった[14]。
半島戦争は同時代におけるポルトガルの衝撃的な幕開けを表していた。リオデジャネイロへの宮廷の移転は、その後独立することになるブラジルの国家建設の始まりであった。宮廷、政府、陸軍からなる15,000人以上の人々がポルトガル艦船に乗り亡命できたことは、ブラジルにとってはおまけであり、ポルトガルにとっては見せかけの恩恵であった。なぜならば、それは独立へのエネルギーを解放したからである。不在間の王に指名されたポルトガルの知事には、フランスの侵略とイギリスの占領が続くために、僅かに影響していた。戦争大臣のミゲル・ペレイラ・フォルハスの役割は独特なものであった。ウェルズリーはペレイラを「イベリア半島でただ一人のまともな政治家」と見ていた。ポルトガル軍の参謀と55,000人の常備軍、50,000人以上の国民防衛隊「ミリシアス」と様々な数の郷土防衛隊「オルデナンサス」の(全体で10万を越えると目される兵力)創設を指揮した。1812年にロシアの宮廷大臣であるシュタイン男爵に送った手紙で、フォルハスは「焦土作戦」の採用が、ナポレオン1世の侵略を打破し領土を守る唯一の方法として薦めた。ロシアのインペラートルアレクサンドル1世は、ウェルズリーのポルトガル軍戦略を模倣しナポレオン1世の大陸軍を飢えさせるために戦闘を避けるよう命令した。
フランスとの戦争で試練に晒され、訓練され、実戦経験したポルトガル本土残留の新しい階級層は、新生ポルトガルの独立を主張する点で、本戦争における旧来の指導者層に多大な影響を与え、フランス革命に並ぶものでもあった。ベレスフォード元帥は1814年以後もポルトガル陸軍(隷下に160人ほどのイギリス軍将校が中核となる)の司令官(国王がまだブラジルにいるので一種の植民地総督)として残留した。ベレスフォードの元で、ポルトガルの新政策が策定された。これはルソ-ブラジル連合王国のあり方、アフリカの植民地における奴隷供給問題、ブラジルの産業、ポルトガルとの交易など今後の国家計画が定まった。しかし、1820年までにこれら全てが破綻した。ポルトガルの半島戦争に参加した将校はイギリス軍人を追放し、8月24日にオポルトで自由主義革命を開始した。ポルトガルにおける自由主義体制の樹立は1832年から34年の内戦終結後に結実されることとなる。
ホセ1世は当初、フランスとの協力関係で近代化と解放が得られると信じていた「アフランセサドス」(親仏派)のスペイン人に歓迎された。一つの例が異端審問の廃止であった。しかし、聖職者と愛国者は人民を煽動し、実際にフランス軍が抑圧する事件(1808年マドリード)がおきると、侵略者に対して人民を団結させ勇気付けるまでに拡大することになった。スペインに残っていた者は、フランス軍に従ってフランスに脱出した。画家のフランシスコ・デ・ゴヤはこれらアフランセサドスの一人であり、戦争後に、告発されたりリンチを受けないようにフランスに亡命しなければならなかった。
独立支持派は伝統派と自由派双方にいた。戦争後、国王フェルナンド7世(待望の人(後に「彷徨える国王」))が、各地の連合を纏め上げフランスに抵抗すべくカディスで召集した独立議会が行った社会的前進を無効とした。自由主義議会は1812年3月19日制定の憲法を可決したが、後にフェルナンド7世によって破棄された。フェルナンド7世は絶対君主制を復活させ、自由主義を標榜する者を全員起訴して処刑し、愛娘イサベルのために王位継承法(従来のスペインは男子にしか王位継承権は与えられなかった)を変えた。これを契機として、旧法での王位継承者である王弟ドン・カルロスの支持者との内戦(カルリスタ戦争)の世紀が始まった。半島戦争により他国の抑圧的支配から逃れたはずのスペインは、それ以上の混乱、荒廃を内戦によって引き起こし、百年も後退してしまう。しかしスペイン人の近代化に対する渇望は、やがてリエゴ革命等によって現実化されて行くのである。
一方、植民地だったスペイン領アメリカでは、クリオーリョが各地の市参事会にてフェルナンド7世に対して忠誠を誓う連合組織を結成した。この自治の経験と、フランシスコ・デ・ミランダらによる独立への動きが元になって後に、自由主義者(リベラトルス)にスペイン領アメリカ植民地の独立を促すことになった。シモン・ボリーバルもその一人である。
また、この戦争中フランス軍はカトリック教会の大量の財産を多く略奪した。美術品はフランスに送られ、教会と修道院の建物は、馬小屋や兵営に使用され、スペインの文化遺産が深刻な打撃を受けることとなった。加えて英葡軍がスペインの都市と農村を略奪した。戦争の影響は、スペインの経済を著しく低下させ、19世紀の停滞をもたらすことになる。
諜報活動は1810年を過ぎるとイギリス軍の戦争遂行に大きな役割を果たした。スペインとポルトガルのゲリラは、フランス軍の密使から通信文を奪取するよう依頼された。1811年からこうした文書類は一部または全文が暗号化されていることがよくあった。ウェルズリーの参謀であったジョージ・スカヴェルは解読の任務を与えられた。初め使用する暗号はかなり単純で他の参謀の助けをもらった。だが、1812年の始めには、更に難しい暗号が、独創的に外交文書用に改訂され使われるようになると、スカヴェルは解読を進めていくことに夢中になった。解読作業は、フランス軍の動きと配置に関する知識が、上記の交戦で大きな成果を収める結果と共に徐々に進んでいった。フランス軍は暗号が解読されているとは知らず、ビトリアの戦いでその暗号表が奪われるまで使い続けた。
プロスペル・メリメの小説「カルメン」 - これを基にした ビゼーのオペラ「カルメン」はこの戦争中の設定である。
The Sharpe's series by Bernard Cornwell