加原 武門(かはら ぶもん、1904年6月13日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。本名は川原 毅(かわはら たけし)[1][5]、旧芸名大泉 浩路(おおいずみ こうじ)、大泉 浩二(おおいずみ こうじ)、大泉 慶治(おおいずみ けいじ)[1][3][4]。
1904年(明治37年)6月13日、福岡県に生まれる[1][5]。
長じて東京に移転し、中央大学政経部に進学するも中途退学し、作家・大泉黒石の紹介を得て1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所現代劇部に入社した[1]。大部屋時代を経て、1930年(昭和5年)8月29日に公開された徳永フランク監督の『太洋の心』、1931年(昭和6年)3月20日公開に公開された村田実監督の『ミスター・ニッポン 前篇』あたりから役がつき始め、黒石から名を得て「大泉 浩路」として映画界にデビューしている[1][4][7]。同年6月12日公開された溝口健二監督の『しかも彼等は行く』に出演、翌1932年(昭和7年)には、溝口の移籍した入江たか子の入江プロダクションへ移籍、『満蒙建国の黎明』、『滝の白糸』に出演する[1][4]。そのまま入江プロダクションの配給提携先である新興キネマに残り、同社の現代劇部が東京に移転し、新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)が開かれると、大泉も同撮影所に異動になり、「大泉慶治」と芸名を改めた[1][4][3]。同年末、マキノ正博が京都に新しくトーキーのための撮影所、マキノトーキー製作所を開くとここへ移籍、現代劇のほか、剣戟映画にも出演した[3]。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔や大内弘ら大半の俳優とともに新興キネマにもどり、「加原武門」と芸名を改めて東京撮影所で再スタートした[1][2]。
1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、新興キネマは合併して撮影所は閉鎖されたが、加原は同社に継続入社する[1][2]。現代劇部門は大映東京撮影所(かつての日活多摩川撮影所、現在の角川大映撮影所)に集約された[1][2]。第二次世界大戦終結後、撮影所の労働組合の執行委員長を務めている[1]。1954年(昭和29年)4月、日活が調布に新しく日活撮影所を建設、製作を再開するにあたり、加原は同社に移籍した[1][2]。以降、1972年(昭和47年)まで日活に所属し、脇役俳優を続けた[1][2]。同年引退、以降の消息は知られていない[1][2]。没年不詳。
すべてクレジットは「出演」である[2][3][4][5][6]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][9][10]。同センターなどに所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[4][7]。すべて「大泉浩路」名義である[4][7]。
特筆以外すべて製作は「新興キネマ」(のちの新興キネマ京都撮影所)、配給は「新興キネマ」である[4]。すべて「大泉浩路」あるいは「大泉浩二」名義である[4]。
特筆以外すべて製作は「新興キネマ東京撮影所」、配給は「新興キネマ」である[3]。すべて「大泉慶治」名義である[3]。
すべて製作は「マキノトーキー製作所」、配給は「千鳥興行」である[3]。すべて「大泉慶治」名義である[3]。
すべて製作は「新興キネマ東京撮影所」、配給は「新興キネマ」である[2][3][4]。初期の特筆以外すべて「加原武門」名義である[2][3][4]。
初期の特筆以外すべて製作は「大映東京撮影所」、配給は「大映」である[2]。すべて「加原武門」名義である[2]。
すべて製作・配給は「日活」である[2][6]。すべて「加原武門」名義である[2][6]。