光明寺(こうみょうじ)は、東京都港区にある浄土真宗本願寺派の寺院。梅の花で有名。徳川家康は光明寺の梅を喜び、3代将軍・家光は「梅上山」の山号を贈り、江戸時代には幕府への新年寺社献上の第1番は光明寺の梅とされていた[1]。
歴史
創建から改称まで
鎌倉時代はじめの1212年(建暦2年)、天台宗の僧・了栄が、桜田霞ヶ関の地に、真色山・常楽寺(光明寺の旧称)を創建[2]。一説に1250年(建長2年)の創建ともいう。1226年(嘉禄2年)、了栄は親鸞の教化を受けて、浄土真宗に宗旨を改めた。
室町時代の1540年(天文9年)、常楽寺から「光明寺」へ改称。
江戸時代
江戸時代のはじめの1604年(慶長9年)
、江戸城を造営するため霞ヶ関から現在の場所に移転。
1645年(正保2年)、第3代将軍・徳川家光が光明寺を訪問し、祖父の家康が光明寺の梅を献上され喜んだ故事にちなみ、山号を真色山から「梅上山」(現在の山号)に改めるよう命じた。
1772年(明和9年)、明和の大火で境内へ避難してきた人々が数多く焼死。供養のため「焼死人の墓」を建立(港区指定文化財)。
画僧で漢詩人の雲室は26代目の住職。書家の生方鼎斎の墓もある。
明治から現在まで
明治維新の廃仏毀釈で仏教と僧侶の地位が失墜するなかで、1880年(明治13年)、富山県出身の石上北天(第29世住職)が光明寺へ入寺した。北天は「建白和尚」とも呼ばれ、廃仏毀釈で低下した仏教の地位向上に尽力した[3]。
1945年(昭和20年)東京大空襲により、仮本堂などが全焼[4]。その後、復興。
現在は、伝統仏教の寺院としての活動の他、一般向けの催しとして「法話会」「仏教講座」「神谷町オープンテラス」「おあさじ(朝のお勤め)」「テンプル・モーニング(朝掃除の会)」「お寺の音楽会 誰そ彼[5][6]」「法律相談」なども行っている[7]。現在の住職は石上和敬(いわがみ わけい)[8]。
文化財
- 弥陀種子板碑(指定 H27.10.14)[9]
- 明和の大火死者供養墓(指定 H22.10.27)[10]
交通アクセス
ギャラリー
脚注
外部リンク
関連項目
- 市川鶴鳴 墓は光明寺にある。
- 雲室 画僧、漢詩人で光明寺の二十六世住職。
- 生方鼎斎 墓は光明寺にある。
- 松本紹圭 光明寺の僧侶で「未来の住職塾」塾長。
- 熊谷育美 光明寺で定例ライブを行ったシンガーソングライター。