『俺たちの朝』(おれたちのあさ)は、日本テレビと東宝の制作で、同局系日曜20時枠で1976年10月17日から1977年11月13日まで全48回で日曜日20時から1時間枠で放送された日本の青春ものテレビドラマ。「俺たちシリーズ」第2作。鎌倉を舞台に5人の若者たちのさまざまな青春模様を描く。勝野洋主演。
刑事ドラマ『太陽にほえろ!』のテキサス刑事役を降板した勝野洋の次回作であり、初の主演作である。前番組であった中村雅俊の主演作『俺たちの旅』の人気を引き継ぎ、当初は全13話の予定だったが全26話に伸びたうえ、全48話1年間のロングランとなった[1]。このため、他の仕事を断って出演し続けた役者にはギャラのアップがあったという[1]。
『俺たちの旅』に続く「俺たちシリーズ」2作目[注 1]として制作され、舞台設定は当初世田谷区の等々力渓谷を予定していたものの、駅のホームでの撮影許可が出なかったことにより断念し、当時まだそれほど観光客も多くなく、江ノ島電鉄の廃止も決まっていた鎌倉が選ばれることとなった[2]。小倉一郎は「勝野洋さんが『太陽にほえろ!』で殉職するので、岡田晋吉さんが『勝野君がこれきり消えてしまうのは惜しい』と考え、もう一本勝野さんのためにドラマを作って、勝野さんをスターにしようとされた。それで中村雅俊さんの『俺たちの~』を一シリーズ休ませて勝野さんを主人公にドラマを作ったのです。撮影は毎朝、砧の国際放映から鎌倉に向かい、鎌倉周辺で撮影して再び国際放映のセットに戻るというハードなものでした。ドラマはビデオでなく、フィルムで撮っています」などと述べている[1]。
放送開始時には結末が決まっておらず、放送が進む中で最終話に向けて書き進めていくのが一般的で、本作についても、最初に登場人物のキャラクターを練り上げて流れを作り上げた後、自然と進んでいくスタイルにより、1年間に渡って書き進められた[2]。
昭和50年代前半、神奈川県鎌倉のイメージに強い影響をもたらしたドラマである。作品の舞台となった古都・鎌倉が見直され、とりわけ江ノ島電鉄は1960年代からモータリゼーションの影響で利用者が激減し廃線が模索されていた。しかし、国道の慢性的渋滞とバス転換の難しさ、藤沢駅付近の開発と、本作のヒットによって放映中からドラマに喚起された若者達の観光名所となったことから、主人公達が住んでいる設定の極楽寺駅周辺は連日の賑わいとなり、利用客数は上昇に転じ江ノ電は廃線の危機を脱した[4]。一方では極楽寺駅にあった当時の木製の伝言板が書き散らされて壊れ、江ノ島電鉄からの「この番組(俺たちの朝)のおかげで壊された」との訴えに日本テレビ側が応じて鋼製の伝言板を寄贈、更には記念スタンプや記念切符も日本テレビがデザイン。テレビ番組に因んで記念切符を発行したのはこれが鉄道史上初めてだったということで、記念切符はすぐに売り切れて増刷となり、江ノ島電鉄は史上空前の利益を計上したことで社長が感謝の意を伝えるために、当時の日本テレビ社長の小林與三次の下を訪れたほどであった[5]。
修学院大学を中退した修治(オッス)とオッスの友人で在学中の勇夫(チュー)は、都内の下宿先を追い出され、偶然会ったオッスの幼友達で先輩でもある太作(ヌケ)を追って、居を求めてチューと2人でリヤカーを引き鎌倉まで行く。そして、そこで知り合った東京美術大学学生の麻子(カアコ)と3人で奇妙な共同生活を始めることになる。
オッスは大の海好きで、スイミングクラブで働きながら将来はヨットでの世界一周を夢見ている。チューは芝居に命を賭け役者になることを、カアコは「染色」デザイナーの道に進むことをそれぞれ考えているが、途中での様々な苦労や困難、また、3人共同で始めたジーンズショップの閉店などで夢はだんだん遠のいていく。
紆余曲折を経てオッスは父からもらった資金を元手に、遂に念願のヨットでの航海に出ることになる。
日本テレビ系で放映されたドラマ作品のソフト化を多数手掛けるVAPより2005年夏に全話収録のDVDボックスを2つにわけて発売開始。 初映像ソフト化であり、地上波はもとよりCS放送などでも近年放映の機会がなかった本作の待望のソフト化となった。
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