信川郡(シンチョンぐん)は朝鮮民主主義人民共和国黄海南道に属する郡。
地理
黄海南道中部に位置する。東に載寧郡、北に安岳郡、西北に松禾郡、西南に苔灘郡、南に碧城郡、東南に新院郡と境を接する。
平野が開いており、穀倉地帯である。
行政区画
1邑・31里を管轄する。
- 信川邑(シンチョヌプ)
- 乾山里(コンサンニ)
- 勤労者里(クルロジャリ)
- 道楽里(トランニ)
- 東嶺里(トンニョンニ)
- 冷井里(レンジョンニ)
- 龍塘里(リョンダンニ)
- 龍山里(リョンサンニ)
- 梨木里(リモンニ)
- 明沙里(ミョンサリ)
- 明石里(ミョンソンニ)
- 泮亭里(パンジョンニ)
- 鉢山里(パルサンニ)
- 白石里(ペクソンニ)
- 福隅里(ポグリ)
- 司倉里(サチャンニ)
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- セギル里(セギルリ)
- セナル里(セナルリ)
- 書院里(ソウォンニ)
- 石橋里(ソッキョリ)
- 石塘里(ソクタンニ)
- 松梧里(ソンオリ)
- 温泉里(オンチョンニ)
- 雨龍里(ウリョンニ)
- 牛山里(ウサンニ)
- 猿岩里(ウォナムニ)
- 月城里(ウォルソンニ)
- 長財里(チャンジェリ)
- 指南里(チナムニ)
- 青山里(チョンサンニ)
- 虎岩里(ホアムニ)
- 花産里(ファサンニ)
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歴史
高麗時代には信州と呼ばれ、李氏朝鮮時代初期の1413年に信川郡に改称された。近代の行政区画再編の中で信川郡は存置され、1909年に文化郡を編入した。
1952年には北朝鮮の行政区域の再編にともない、郡の一部が三泉郡に分割されたほか、安岳郡との間で境界線の変更が行われている。
年表
この節の出典[1]
- 1909年3月 - 文化郡を信川郡に編入。
- 1914年4月1日 - 郡面併合により、黄海道松禾郡の上龍門面・下龍門面、安岳郡の大元面・青龍面・順豊面・龍淵面の各一部、載寧郡の清水里面・上方面・西湖面・下栗面の各一部、海州郡の検丹面の一部が信川郡に編入、魚蘆面・越川面の各一部が安岳郡に編入、斗羅面の一部が載寧郡に編入。信川郡に以下の面が成立。(15面)
- 加蓮面・加山面・南部面・斗羅面・温井面・東部面・蘆月面・山川面・北部面・文化面・弓興面・文武面・用珍面・草里面・龍門面
- 1917年 (15面)
- 1937年 - 信川面が信川邑に昇格。(1邑14面)
- 1952年12月 - 郡面里統廃合により、黄海道信川郡信川邑・龍門面・南部面・斗羅面・加蓮面・温泉面・北部面・加山面および蘆月面・文武面・文化面の各一部、載寧郡西湖面の一部地域をもって、信川郡を設置。信川郡に以下の邑・里が成立。(1邑26里)
- 信川邑・司倉里・福隅里・泮亭里・陵洞里・書院里・鳳凰里・石橋里・虎岩里・明沙里・東嶺里・鉢山里・月城里・猿岩里・雨龍里・石塘里・牛山里・青山里・龍塘里・松梧里・温泉里・石峯里・白石里・明石里・花産里・乾山里・龍山里
- 1954年10月 - 黄海道の分割により、黄海南道信川郡となる。(1邑26里)
- 1958年6月 - 碧城郡道楽里・冷井里・指南里を編入。(1邑29里)
- 1959年2月 - 碧城郡温泉里を編入。(1邑30里)
- 1965年1月 - 猿岩里の一部が信川邑に編入。(1邑30里)
- 1967年10月 (1邑31里)
- 温泉里の一部が分立し、長財里が発足。
- 松梧里・猿岩里の各一部が温泉里に編入。
- 1977年9月 (1邑31里)
- 石峯里がセナル里に改称。
- 鳳凰里がセギル里に改称。
- 1981年10月 - 陵洞里が勤労者里に改称。(1邑31里)
信川虐殺事件
朝鮮戦争中の1950年10月から12月にかけて、国連軍が当地を占領した際に多数の住民が虐殺されたという。
戦争当時からの北朝鮮の主張によれば、米軍によって約3万5000人の住民が虐殺されたという。1958年から当地には信川博物館が設置されており、米国への敵愾心と愛国心を喚起する展示が行われている。
文化・観光
交通
鉄道
出身者
脚注
関連項目
外部リンク
座標: 北緯38度21分16秒 東経125度28分50秒 / 北緯38.35444度 東経125.48056度 / 38.35444; 125.48056