『人形の家』(にんぎょうのいえ、丁: Et dukkehjem [ed̥ ˈd̥ɔɡ̊əjɛmˀ])は、1879年にヘンリック・イプセンによって書かれた戯曲。
1879年、デンマーク王立劇場で上演された。弁護士ヘルメルの妻ノラ(ノーラ[1])を主人公とし、新たな時代の女性の姿を世に示した作品。全3幕。
世界的にイプセンの代表作とされている。この作品(あるいは前作の『社会の柱』)をもってイプセンの社会劇あるいは中期問題劇の始まりと見なすのが一般的であり、彼はこの後ほぼ2年に1作のペースで作品を書き上げることになる。リアリズム演劇あるいは近代劇の代表作品であり、同時にしばしばフェミニズム運動の勃興とともに語られる作品である。この作品の成功がイプセンを一躍世界的な劇作家とした。西欧内部だけでなく、アジア諸国の女性解放運動や新劇(日本)、話劇(中国)など伝統演劇とは異なる新演劇の形成に直接の影響を与えた。
弁護士ヘルメルと妻ノラ(ノーラ)は公私ともに充実した生活を送っていたが、クリスマスイブに事件が訪れる。
ヘルメルは年明けから信託銀行の頭取に就任することとなり、その部下となる予定のクロクスタが、ノラを訪ねた。クロクスタはヘルメルと旧知の仲であったが疎まれており、ヘルメルの頭取就任後に解雇される予定であった。ノラはクロクスタの解雇撤回の頼みを断ろうとするが、クロクスタはノラが過去に犯した違法行為の証拠を握っていることを明かす。それはかつてヘルメルが重病に陥り金銭が必要になったとき、ノラはクロクスタから借金をし、その際に借用証書の父のサインを偽造したのであった。当時、父は死の床にあったため、それは苦肉の策でもあった。もし解雇されるなら、この秘密を暴露するとクロクスタに宣言されたノラは悩む。
ノラはヘルメルにクロクスタの解雇を取り消すよう頼むが、事情を知らないヘルメルは取り合わず、クロクスタは解雇を通告される。宣言どおりクロクスタは秘密を暴露する手紙をヘルメルに送りつけた。事情を知ったヘルメルは激怒し、ノラをさんざんに罵倒するが、その最中に改心したクロクスタから借用証書が返送されてくる。先ほどまでの態度を豹変させ、ヘルメルは微笑んで甘い言葉を発するようになる。ノラは今までにヘルメルから愛情を受けていると思っていたが、実は自分を人形のように可愛がっていただけであり、一人の人間として対等に見られていないことに気づき、ヘルメルの制止を振り切って家を出る。
日本における初演は文芸協会による。会長の坪内逍遥の私邸内に建てられた文芸協会試演場で公演された[4]。
9月公演のキャストは以下の通り。表記は当時による。
築地小劇場 イプセン生誕百年記念公演[6]
東京芸術劇場 第一回公演[7]
劇団民藝 新劇50年記念公演
ノルウェー国立劇場 日本公演[9]
劇団俳優座 イプセン生誕150周年記念公演[11]
シアターΧ提携公演 イプセン現代劇連続上演 第2作[12]
現代演劇協会 RADAイン東京二十周年記念公演[15]
俳優座劇場プロデュース公演『音楽劇人形の家』[16]
りゅーとぴあプロデュース[17]
俳優座劇場プロデュース公演『音楽劇人形の家』 』[18]
2024年公演
深作組ドイツ・ヒロイン三部作第一弾『ノラーあるいは、人形の家ー』
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