久里 洋二(くり ようじ、1928年4月9日[1] - 2024年11月24日)は、日本のアニメーション作家、イラストレーター、絵本作家、洋画家。一コマ漫画家としても活動している。本名:栗原 英夫(くりはら ひでお)[1]。
2016年以降、クリ ヨウジ、または姓名の間に中黒を入れたクリ・ヨウジの名義を併用して活動している[2]。
福井県今立郡鯖江町(のちの鯖江市)出身[3]。父は軍人。陸軍幼年学校の受験に失敗後、旧制福井県立武生中学校(のちの福井県立武生高等学校)へ入学。中学時代に終戦を迎えた。1947年、京都市美術学校の入学試験に合格するが、父親が公職追放となり、学費の目処が立たなくなったために進学を断念し、郷里で様々な職業について家計を助けた[3][4]。この頃、横山泰三の漫画に心酔し、自身でも雑誌への投稿を重ねるが、一度も採用されなかった[3][4]。
横山への憧れが高じ、1950年に横山の住居・鎌倉市に近い藤沢市に移住[4]。藤沢には漫画家の利根義雄がおり、偶然知己を得た久里は、利根の紹介で横山や、演出家の丸尾長顕と知り合う[4]。横須賀税務署への勤務[5]を経て、1952年には利根の斡旋で共同通信社の画信室に転職し、写真や漫画などの画像素材を地方紙に販売する業務に従事した[4]。1954年、絵の勉強のために文化学院美術科と学校法人アテネ・フランセに入学[3]し、3年通学。この間に小島功率いる独立漫画派に入会し、雑誌の寄稿で学費を稼いだ[4]ほか、二科展への出品を開始した[3]。
1958年、読売新聞社会部の嘱託としてカット製作に従事[3]するかたわら、自身のアトリエ「久里実験漫画工房」を設立し、『久里洋二漫画集』を自費出版[3]。久里は用紙や製本素材選び、印刷業者・製本業者への搬入、配本をすべてひとりで行った[4]。久里は同作で第4回文藝春秋漫画賞を受賞した。
1960年、「久里実験漫画工房映画部」を設立し、アニメーションの自主制作を開始[3]。映画祭への出品や、テレビ番組・テレビCMなどへの提供を数多く行い、多数の賞を受賞した(後述)。1971年には日本アニメーション協会の設立メンバーとなる[6]。
2010年、郷里・鯖江市の郷土博物館「まなべの館」の名誉館長に就任した[6]。久里は同館にアニメーション作品の映像資料および油彩画・アクリル画を寄贈している[7]。
2024年11月24日に老衰により死去。96歳没。訃報は同年12月15日に公式ホームページで公表された[8][9][10]。
下記のいくつかはDVD「久里洋二作品集」(ジェネオン・エンタテインメント 2002年)のほか、鯖江市「まなべの館」の常設展示[16]で見ることができる。
久里は日本放送協会(NHK)のテレビ番組『みんなのうた』の楽曲映像を、放送開始当初から1970年代前半まで多く手掛けた。
無印は映像がNHKに現存する曲。▲は映像現存が確認されていない曲。△は映像資料が現存しないが、水星社編集の『みんなのうた』楽譜集(音楽之友社)等に映像の一部が掲載されている曲。
久里が制作した同番組映像の大半は現存が確認されていない。2011年から始まった「みんなのうた発掘プロジェクト」によって、『クラリネットこわしちゃった』と『はさみとぎ』のカラー版の映像と、『鬼のねがい』と『カッパのクィクォクァ』の映像が発見され、『クラリネットこわしちゃった』は2014年1月にお楽しみ枠、『はさみとぎ』のカラー版は2015年4月~5月、『カッパのクィクォクァ」は2016年1月にお楽しみ枠で再放送された。
2014年、『われわれは宇宙人だ!』で、39年ぶりにみんなのうたの映像を手掛けた。
上記のほか、絵本などへのイラスト提供多数。
このほか、「久里実験漫画工房映画部」設立と同年の1960年、柳原良平、真鍋博と「アニメーション三人の会」を結成し、草月ホールで定期的に上映会を行った。