おおば比呂司(おおば ひろし、1921年12月17日 - 1988年8月18日[1])は、日本の漫画家、デザイナー。北海道札幌市出身。本名は、大場博司[2]。
漫画集団に所属し、イラストレーションの手法を取り入れたユニークな一コマ漫画で知られた[3]。デザイナーとしての評価も高く[4]、商業デザインの分野でも活躍した漫画家の草分けでもあった。また、テレビタレントとしても活動した。
蕎麦屋を営む大場清男・サン夫妻の次男として生まれ、幼少期から漫画・イラストの才能を発揮[1]。札幌市第二高等小学校(現・柏中学校)卒業後印刷会社や看板描き[1]、草履店での丁稚奉公を経て[5]、1942年12月・21歳の時に徴兵で陸軍航空隊に入隊し整備士となる[1]。なお従軍時の体験が、後の飛行機デッサン創作に活かされる事となる。
終戦後は札幌飛行場内の逓信省航空局に就職するもGHQによる航空禁止令を受けて短期で辞職[5]、北海道新聞社に入社しトラック運転手を勤め[1]、その後札幌市内のアメリカ進駐軍病院の看板描きに採用されポスターやカードの制作に携わるも収入が不安定なこともあり1948年に北海道新聞の配送業務に戻る[5]。
1949年に図案課へ異動[5]、主に挿絵を担当し[6]、また勤務のかたわら漫画・図案を描く[2]。卓抜したアイディアと一晩で最大50枚を描いた速描きぶりから「輪転機」といわれるほどの実力を見せ[1]、社業の傍らで画家集団「方究会」やデザイナー集団「青年美術協会」の設立に携わり[5]、個展・グループ展や服飾専門学校の臨時講師も行った[1]。1955年には講師として訪れた服飾専門学校の生徒だった和田百合子と結婚[5]。1950年代には週刊漫画誌ブームに乗じて文藝春秋「漫画読本」などに漫画を投稿し出張に絡めて上京を繰り返す[1]。
北海道新聞社を退社し1958年に独立して東京に移り[2]、漫画家としての活動を本格化させる。漫画雑誌などに原稿を執筆し、コンテを用いふんわりとした曲線で描かれた独創的で温かみのあるタッチで人気を博した[1]。数多くの企業デザインも手掛け、特に飛行機好きが高じて全日空の時刻表表紙も担当し、テレビ番組で早描きを披露し飾らない人柄もあり人気者となった[1]。
1972年から12年間北海道庁広報誌『ほっかいどう』の表紙のイラストを手掛けており[7][8]、読売新聞・報知新聞などにもイラストを掲載していたこともある。石ノ森章太郎は著書『マンガ家入門』(1965年)の中で、日本における一コマ漫画(カートゥーン)の名手として、おおばの名前を挙げている。
1973年にはさっぽろ東急百貨店に日本初の漫画画廊を開業、1981年には東京で初めての個展を開催[1]。1982年には美術大学に入学した長男のヨーロッパ留学に合わせ一家でアムステルダムに移住し、オランダの暮らしぶりをイラストエッセイ「おおば比呂司のおらんだサンデー通信」として北海道新聞に連載する一方ヨーロッパ各地へのスケッチ旅行も実施[1]、1983年には現地で水彩画の個展を開いた[2]。1986年4月に帰国[2]。1987年4月からは麗沢大学でマンガ文化論の講義も受け持った。
1988年8月18日、脳梗塞のため66歳で急逝[9][10]。十勝海洋博覧会でのイベントへの出席が最後の公の場となった。1989年に長男で画家・旅行作家の大場伸之の編集による画集『おおば比呂司の世界』が刊行された。三回忌を迎えた1990年には、漫画家仲間や趣味の飛行機を通じた友人であった斎藤茂太(精神科医・エッセイスト)らの尽力により、東京都練馬区の自宅を改装して「おおば比呂司記念館」が開館した[2][11]。その後札幌市資料館に「おおば比呂司記念室」が併設されており、作品や再現されたアトリエを見学できる[12]。記念室を管理・運営するNPO法人「Fit北海道会議」は、アイヌの少年を主人公とした未発表絵本『セクッペの下駄』といった遺作の刊行も手掛けている[6]。
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