中臣 人足(なかとみ の ひとたり)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。小錦上・中臣垂目の孫で、小山中・中臣島麻呂の子。官位は従四位上・神祇伯。
文武朝末の慶雲4年(707年)従五位下に叙爵。翌和銅元年(708年)2月に元明天皇により平城京への遷都の詔が出ると、9月には造平城京司次官に任ぜられ平城宮の造営を担当する。
その後、和銅4年(711年)従五位上、和銅8年(715年)正五位下、霊亀3年(717年)正五位上次いで従四位下と、元明朝から元正朝にかけて順調に昇進を果たす。またこの間の霊亀2年(716年)に出雲国造・出雲果安が斎戒を済ませて神賀事(治政を祝福する寿詞)を上奏した際、神祇大副であった人足はこの寿詞を元正天皇に奏聞している[1]。
『続日本紀』による。
「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。