中江 兆民 (なかえ ちょうみん、1847年 12月8日 〈弘化 4年11月1日 〉-1901年 (明治 34年)12月13日 [ 1] )は、日本 の思想家 、政治家 [ 2] 。本名は中江 篤介 (なかえ とくすけ)。自由民権運動 の理論的指導者であり、第1回衆議院議員総選挙 における当選者の一人。フランス の啓蒙思想 家ジャン=ジャック・ルソー を日本へ紹介したことから東洋のルソーと評される。
「兆民」は本名ではなく号 であり、『億兆安撫国威宣揚の御宸翰 』に基づく「億兆の民」の意味。「秋水 (しゅうすい)」とも名乗り、弟子の幸徳秋水 に譲渡している。また、他の号に「青陵」「木強生」がある。幼名は竹馬 (ちくま)。
生涯
誕生と修学
高知城 下の山田町(現・高知市 はりまや町三丁目)に生まれる。文久 元年(1861年 )2月に父が死去し、5月には家督 を相続して足軽 身分となる。文久2年(1862年 )には藩校 の文武館 開校と同時に入門し、細川潤次郎 、萩原三圭 らの門下で学ぶ。外国語なども学び、慶応 元年(1865年 )9月には、藩が派遣する留学生として長崎へ赴。このころ郷土の先輩である坂本龍馬 と出会っている。龍馬に頼まれてたばこを買いに走った、などの逸話を残している。その後、幕府の語学所学頭平井義十郎 (平井希昌)からフランス語 を学ぶなど外国語習得に努める。慶応3年(1867年 )5 - 6月に江戸に移り、村上英俊 の達理堂で学ぶが破門され、横浜天主堂の僧にも学んだという。同年末に兵庫が開港されると上方へ赴き、フランス外交団の通訳 を務める。
政府出仕
王政復古 、江戸開城 により江戸幕府 が消滅して明治 になると、苗字 の名乗りを許される。兆民は通訳 を辞職して東京へ戻り学問を続ける。福地源一郎 (桜痴)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたといわれるが長続きせず、箕作麟祥 の家塾にも入門。明治3年(1870年 )には大学南校大得行生となっている。翌明治4年(1871年 )、廃藩置県 により土佐藩の身分制から開放され、明治政府が派遣した岩倉使節団 には司法省 9等出仕として採用される。このとき、兆民は大久保利通 に採用を直訴したという。同年11月には横浜 から出発し、アメリカ から第三共和政時代のフランス へ渡る。フランスではパリ 、リヨン に滞在し、西園寺公望 とも知り合う。
明治7年(1874年 )6月に帰国し、帰国後は東京麹町 に住み、8月には家塾の仏蘭西学舎 (のちに仏学塾)を開いた。塾では語学や思想史のほか、漢学も重視され、民権論についても教授した。当時の生徒に、後に大隈重信 を襲撃した来島恒喜 らがいた。18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソー の『社会契約論 』の部分訳である漢字カタカナ混じり文の『民約論 』の校訂にも携わった。
明治8年(1875年 )には東京外国語学校 (現東京外国語大学)の校長となるが、徳育教育を重視する兆民は教育方針をめぐり文部省 と対立したとされ、直後に辞職。元老院 副議長の後藤象二郎 より同院権少書記官に任命され[ 3] 、調査掛に配属され、調査課、調査局翻訳掛を経て、翌明治9年(1876年 )には国憲取調局掛を兼ね、井上毅 らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を行う。勝海舟 とも知り合い、翌年には縁談を持ちかけられるが破談。勝や薩摩閥の海江田信義 、海江田を通じて島津久光 とも知り合い、『策論』を建言したという。初見八郎は門下生で漢学蘭学を学んだ後衆議院議員となる。明治10年(1877年 )に辞職。同年には西南戦争 が起こっているが、仏学塾で学んだとも言われる宮崎八郎 の薩摩軍参加を止めるために兆民が熊本へ赴いたという伝承もある。明治13年(1880年 )には高知県士族 の娘の鹿と結婚するが、翌年には離婚している。
在野時代
元老院の辞職後は家塾経営や翻訳業のほか、私塾・済美黌 で高谷龍洲 に師事して漢学修行を続けている。自由民権運動 の気運が盛り上がる中、明治14年(1881年 )3月に西園寺らと創刊した『東洋自由新聞 』の主筆を務めるが、すぐに廃刊となり、翌明治15年(1882年 )には仏学塾から『社会契約論』の漢文 訳『民約訳解』を刊行。自由党 の旗揚げに関わり、党発行の新聞 である『自由新聞 』社説掛となる。明治16年(1883年 )には日本出版会社を設立。明治18年(1885年 )には長野県出身のちのと結婚。外相・井上馨 の条約改正 交渉を巡る大同団結運動に参加し、明治20年(1887年 )には長野で演説、後藤象二郎 の農商務大臣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例 で東京を追われる[ 4] 。また、明治21年(1888年 )には仏学塾も廃塾となる。
明治21年(1888年)に大阪で創刊した『東雲新聞 』の主筆も務める。兆民の演説に感銘を受けた角藤定憲 に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大阪新町座で大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、いわゆる壮士芝居 の先駆となる。そのときの演目のひとつ『勤王美(義とも)談上野曙』は兆民が幸徳秋水 に依頼したといわれる。
初期議会と議員辞職
翌明治22年(1889年 )には大日本帝国憲法 発布の恩赦 を得て追放処分が解除され、明治23年(1890年 )の第1回衆議院議員総選挙 では大阪4区から出馬する。自ら本籍 を大阪の被差別部落 に移し、「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族 にして、インド の「パリヤー」、ギリシャ の「イロット」と同僚なる新平民 にして、昔日公らの穢多 と呼び倣わしたる人物なり」[ 5] と自称した兆民は、被差別部落民らの支持を得て、1,352票を獲得して一位で当選[ 6] 、国会議員となる。また、兆民の二人目の妻である松沢ちのは被差別部落出身だったともいわれる[ 7] が、実際には代々神官 を務めていた旧家の出身とされる[ 8] [ 9] 。
兆民は民党結成のために奔走し、明治23年(1890年 )に立憲自由党 が結党され、『立憲自由新聞 』の主筆を務めたが、自由党土佐派 の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤り明治24年(1891年 )2月27日に辞職[ 10] 。その際「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御届候也。」という辞表を提出した。自身をアルコール中毒 と主張する辞職願は僅差で承認されたが、政府の土佐派切り崩し工作への皮肉であるという批判を受ける。
北海道渡道から晩年
明治24年(1891年 )7月には北海道 の小樽 へ移り、実業家 として活動を行う。4月には小樽初の新聞である『北門新報 』を創刊して主筆を務める[ 11] 。『北門新報』の社主は金子元三郎 で、金子は日本へ亡命していた朝鮮人革命家・金玉均 を介して兆民を紹介されたとする説もある[ 11] 。
同年12月15日には衆議院が解散され第2回衆議院議員総選挙 となり、兆民は12月27日に東京へ向かうと、仏学塾出身で長野県五区から立候補した小山久之助 ・長野県三区から立候補した堀内賢郎 を応援するため長野県 まで赴いている[ 12] 。なお、第2回総選挙では小山・堀内両人とも落選している[ 12] 。明治25年(1892年 )1月17日には母の柳が死去する[ 12] 。
明治25年に『北門新報』は札幌へ進出しているが、兆民は『北門新報』を退社すると高知へ赴く[ 13] 。明治26年(1893年 )に兆民は札幌で「高知屋」を開業する[ 14] 。
さらに兆民は材木業を営む「北海道山林組」を設立する[ 15] 。また、鉄道 事業にも熱心で、明治27年(1894年 )の常野鉄道をはじめ、毛武鉄道[ 16] など数多くの発起人となっている [ 注釈 1] 。明治30年(1897年 )には中野清潔会社を起こす。
明治31年(1898年 )には群馬の遊廓 再設置運動など、虚業的とも評される数々の事業や政治的活動を手がけようとするが、いずれも失敗している。12月には国民党を結成して政界復帰を望む。
国民同盟会 の会議に出席するが、大阪で病床に臥せ、明治34年(1901年)12月13日、満54歳で死去。前年から咽頭に異常を感じ、明治34年4月に喉頭癌 と診断され、余命1年半の宣告を受けた。晩年の著書『一年有半』の書名はこの余命宣告に由来する[ 17] 。5月に切開手術のあと、9月に帰京。静養を続けるものの病状は悪化の一途をたどり、1年を待たず、12月13日午後7時30分、東京・小石川区武島町(現・文京区水道)の自邸で死去。[ 18] 死亡後の病理解剖で、食道癌 であったこと、両肺への転移があったことが判明した[ 19] 。葬儀は宗教上の儀礼を排した告別式 [ 1] として行われ、東京都 港区 の青山墓地 に葬られた。
系譜
若き日の中江
家系
中江家は、初代の伝作が明和 3年(1766年 )に郷士 株を手に入れ新規足軽として召抱えられて以来の家系で、兆民は4代目にあたる。長男の丑吉 は昭和 17年(1942年 )に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。
親類縁者
父は土佐藩足軽 の元助で長男、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県 出身。子は一男一女。娘の千美は竹内綱 の3男虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一 の妻、浪子。
人物・思想
同時代人によって多くの奇行録・奇談が伝えられる。例えば、芸者と昼遊びをしたあと、下半身を往来に向けて出したり、紙幣を100枚ほどばらまいて芸者たちに拾わせては「ああ愉快愉快」とやるような破天荒な人物だったとされる[ 20] 。
帝国憲法発布に狂喜乱舞する民衆の様子を「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水にため息をついた。
著作
訳書
民約訳解(仏学塾、1882年) ルソー 『社会契約論 』(漢文 訳)
非開花論(日本出版会社、1883年) ルソー『学問芸術論』
維氏美学(文部省 、1883-1884年) Eugène Véron(fr ) L'Esthétique (美学#訳語 も参照 )
理学沿革史(文部省、1886年) アルフレッド・フイエ Histoire de la Philosophie (哲学#「理学」 も参照 )
道徳学大原論(一二三館、1894年) ショーペンハウアー Über die Grundlage der Moral (Auguste Burdeau(fr )による仏語訳からの重訳)
著書原著
著書新版
外国語訳
『民約訳解』
Ecrits sur Rousseau et les droits du peuple , traduit, présenté et commenté par Eddy Dufourmont(エディ・デュフルモン仏訳), Paris, Les Belles Lettres, collection chinoise, 2018. ISBN 978-2251448800
『三酔人経綸問答』
Dialogues politiques entre trois ivrognes , traduit et commenté par Christine Lévy et Eddy Dufourmont, Paris, CNRS éditions, 2008. ISBN 978-2-271-06738-8
『一年有半・続一年有半』
Un an et demi. Un an et demi, suite , traduit, présenté et commenté par Eddy Dufourmont, Romain Jourdan et Christine Lévy, Paris, Les Belles Lettres, 2011. ISBN 978-2-251-72211-5
参考文献
同時代の史料
解説・研究
その他
脚注
注釈
^ 常野鉄道・毛武鉄道とも着工にこぎ着けられず未成線 に終わっている。常野鉄道については常総鉄道#歴史 の項目を参照。
出典
関連項目
外部リンク
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事務取扱 井手義行 1949
初代 沢田節蔵 1949-1955
第2代 岩崎民平 1955-1961
第3代 小川芳男 1961-1969
事務取扱/第4代 鐘ヶ江信光 1969-1971/1971-1975
第5代 坂本是忠 1975-1981
事務取扱/第6代 鈴木幸壽 1981/1981-1985
第7代 長幸男 1985-1989
第8代 原卓也 1989-1995
第9代 中嶋嶺雄 1995-2001
第10代 池端雪浦 2001-2007
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第12代 立石博高 2013-2019
第13代 林佳世子 2019-