一条 高能(いちじょう たかよし)は、鎌倉時代初期の公家。藤原北家中御門流、権中納言・一条能保の長男。官位は従三位・参議。
母は源義朝の娘・坊門姫で、源頼朝の甥にあたる。
元暦元年(1184年)に叙爵し、文治2年(1186年)左馬頭に任官。文治3年(1187年)従五位上、文治5年(1189年)正五位下、文治6年(1190年)従四位下、建久3年(1192年)従四位上と、叔父である源頼朝の威光を背景に順調に昇進する。建久4年(1193年)父の能保に続いて右兵衛督に任ぜられ、建久7年(1196年)正月には蔵人頭に補せられた。
一方で鎌倉幕府からは京都守護に任じられて頼朝の娘・大姫との縁談が進められたが、大姫の拒絶にあい破談となる。後に松殿基房の娘を妻として頼氏を儲けた。また、糟屋有季(比企能員の娘婿)の娘との間に能氏、四条隆季の娘との間に能継を儲けている。能氏が長男であったが、母親の身分により三男であった頼氏が嫡男とされた。
建久7年(1196年)建久七年の政変を経て朝廷の中枢にあって政治を領導していた権大納言・土御門通親は、源頼朝が率いる鎌倉幕府の権威の増大に対してこれと融和して政権維持を図った。高能の急激な昇進の背景には通親が頼朝との連携を期待があったと言われている。
建久7年(1196年)12月に参議に任ぜられて公卿に列し、翌建久8年(1197年)正月には従三位に叙された。しかし、建久9年(1198年)9月17日に病死した。享年23。
『公卿補任』による。