平賀 朝雅(ひらが ともまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府の御家人。新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の四男。母は頼朝の乳母比企尼の三女。妻は北条時政と牧の方の娘。名は朝政とも。
生涯
『愚管抄』によると源頼朝の猶子となっており、『吉見系図』の源範頼の項には頼朝から「朝」の一字を給わったとある[1]。
任命時期は不明ながら父・義信(1184年 - 1195年)、兄・大内惟義(1195年 - ?)の後を継いで武蔵守に任じられている。
建仁2年(1202年)、比企氏出身である母が死去。翌建仁3年(1203年)9月に起こった比企氏と北条氏の対立による比企能員の変では、双方と縁戚関係を持つ朝雅は北条氏側として比企氏討伐軍に加わっている。2代将軍・源頼家が追放され、3代将軍・源実朝が擁立された直後、政変による鎌倉幕府の動揺に乗した謀反を防ぐべく京都守護として都に派遣された。
同年12月、幕府の政変に乗じて伊勢国と伊賀国で平家残党の反乱(三日平氏の乱)が起こると、守護の山内首藤経俊が逃走し朝雅に鎮圧が命じられる。翌元久元年(1204年)4月、朝雅はその鎮圧に成功し、その功績により伊賀・伊勢の守護職に任じられる。また『明月記』によると鎮圧の便宜を図るため、後鳥羽上皇から伊賀国の知行国主に任じられており、御家人としては破格の扱いを受けていた(朝雅は里見義成を伊賀守に補任している)。その後、院の殿上人となって後鳥羽院に重用された。
建仁3年(1204年)11月、源実朝の御台所を京都から迎えるため、朝廷や公家との交渉役を務める。その際、御台所を迎えるために上洛していた武蔵国の御家人・畠山重保と朝雅の間で口論となった。その時は周囲の取りなしで事は収まったが、翌元久2年(1205年)6月、先の口論に端を発した畠山重忠の乱が起こり、畠山重忠・重保父子が謀反の疑いで討伐される。『吾妻鏡』は朝雅が重保との争いを妻の母・牧の方に訴え、牧の方が夫の北条時政に畠山親子に謀反の疑いがあると讒言したためとしている。畠山氏は武蔵の最有力御家人で、武蔵国の国司であった朝雅とは関係が深い。朝雅の舅で幕府の実権を握っていた北条時政は朝雅の後見人として、朝雅の上洛後に武蔵国の行政権を握っており、武蔵武士団の棟梁である畠山重忠と対立する関係になっていた。
時政は畠山父子を排斥すべく謀反人に仕立て上げたとされ、時政に畠山討伐を命じられた息子の北条義時・時房は反対したが押し切られ、この事件をきっかけに、時政と義時・政子の対立が決定的になったと『吾妻鏡』は書いている。これは時政の先妻の子(義時)と後妻の娘婿(朝雅)を担ぐ時政との北条家内の対立と、鎌倉に隣接する有力国武蔵の支配を巡る畠山氏と北条氏の軋轢が背景にあったものと考えられる。
元久2年(1205年)7月、源実朝を廃して朝雅を新たな鎌倉殿として擁立しようとした時政が失脚した(牧氏事件)。当時、京都守護を兼ねていた朝雅は閏7月26日に京都で、幕府の実権を握った北条政子・義時の命をうけた在京御家人によって討たれた。『明月記』によると、朝雅は前夜に院御所の番を務めて内北面に伺候していたところに従者が来て密談し、立ったまま問答していた。しばらく経ってから、急用で少し席を外すがまた戻ってくると告げて退出した。その時に初めて自分の追討のことを耳にしたのだろうかと藤原定家は記している。『吾妻鏡』によると、当日に朝雅は後鳥羽上皇の仙洞で囲碁会に参加していた時に討手が来ていることを小舎人の童から伝えられたが、驚いたり動じたりせず座に戻って目数を数えた後で、関東より討伐の使者が上ってきたことを上皇に伝えて身の暇を賜ることを言上した。『明月記』『愚管抄』によると、幕府は実朝の名で在京御家人に「朝雅を討て」と命を下し、後鳥羽上皇にも奏上。六角東洞院(現在の中京区)の朝雅の家を武士[2]が取り巻いて攻め、しばらくは合戦していたが、攻撃する武士たちが朝雅邸に火を放ったため、朝雅は打って出て大津の方へ落ちた。わざと退路を開けて落ち延びさせようとしたようで朝雅は山科(現在の山科区)[3]まで着いたが、追ってくる武士[4]もあり、そこで自害したという[5]。伯耆国の守護の金持という武士が朝雅の首をとって持参したので、後鳥羽上皇も御車に乗って大炊御門の面まで出てそれを実検したとある。北酒出本『源氏系図』によれば享年は24とされる[1]。
系図
脚注
- ^ a b c 山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館、2021年)p.150
- ^ 『吾妻鏡』によると五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱・佐々木高重ら。
- ^ 『吾妻鏡』では松坂(現在の山科区日ノ岡)。
- ^ 『吾妻鏡』によると金持広親・佐々木盛綱ら。
- ^ 『吾妻鏡』では山内首藤通基(経俊の子)が討ち取ったとある。
関連作品
関連項目