五条 有範(ごじょう ありのり)は、鎌倉時代前期の武将[1]。世系は不明であるが平氏であると伝わる[2]。通称は五条判官[1][2]。官位は従五位下・筑後守。
一条家の家人で在京御家人[1][2]。元久2年(1205年)後藤基清、佐々木広綱らと共に平賀朝雅を追捕[1][2]。後に検非違使となり五条判官と呼ばれた[2]。建保元年(1213年)に従五位下に叙され、同2年(1214年)には筑後守となった[1][2]。承久の乱では後鳥羽上皇方に加わり梟首された[1][2]。