ヒル・GH1 (Hill GH1) は、エンバシー・ヒルが1975年シーズンに投入したフォーミュラ1カー。アンディ・スモールマンが設計した[3]。当初はローラ・T371 (Lola T371) と呼ばれていたが[4]、スモールマンがローラを離脱してエンバシー・ヒルに加入した際に、ヒル・GH1と改名された[5]。GH1は12戦で21回のエントリーを行い、合計6名のドライバーがドライブした。ポイント圏内で2度完走、3ポイントを得てコンストラクターズランキングで11位となった。
GH1は第3戦の南アフリカグランプリまで登場しなかった。デビュー戦でロルフ・シュトメレンは7位で完走した[6]。スペイングランプリではグラハム・ヒルに代わってフランソワ・ミゴールがセカンドカーのステアリングを握った。このレースでシュトメレンは17周目にトップに立つが、26周目にリアウィングが脱落してバリアーに激突した。皮肉なことにウィングの脱落はメカニックが手を入れた直後のことであった。マシンは跳ね返ってコースに戻り、反対側のバリアーを飛び越えて5人の観客が死亡した。シュトメレン自身も足と手首を骨折、肋骨にヒビが入った。ミゴールはその時点で10位を走行していたが、トップからは11周遅れであったため[7]、非完走扱いとなった。
この事故の結果、続くモナコグランプリでは決勝グリッドが18台に縮小された[8]。この変更はグラハム・ヒルの予選通過へのチャンスに影響を与えた。モナコ5回の勝者はプラクティスで問題を抱え、0.377秒差で予選落ちとなった。第6戦ベルギーではヒルに代わってトニー・ブライズがステアリングを握り、シュトメレンに代わってミゴールが出場した。デビュー戦となったブライズは4列目からのスタートとなったが、決勝ではシケインでスピンし、18周目にピストンのトラブルでリタイアとなった。ミゴールは58周目にサスペンショントラブルでリタイアした[9]。
第7戦スウェーデンではヴァーン・シュパンがセカンドカーのステアリングを握った。決勝でブライズはマーク・ダナヒューとロニー・ピーターソンを躱し、ランキングリーダーのエマーソン・フィッティパルディに挑んだが、ギアボックスが4速で詰まり、ダナヒューに抜き返された。しかしブライズは自身3度目のグランプリで6位に入賞、ポイントを獲得した。これはエンバシー・ヒルにとっても初のコンストラクターズポイントとなった。ブライズのポイントはF1キャリアにおける唯一のポイントとなった。シュパンは48周目にトランスミッションのトラブルでリタイアとなった[10]。
第8戦オランダからアラン・ジョーンズがセカンドカーをドライブした。このレースではブライズが7位、ジョーンズは13位となった[11]。フランスではブライズは7位、ジョーンズは16位となった[12]。イギリスグランプリに先だってグラハム・ヒルは17シーズンに及ぶ現役生活からの引退を発表し、エンバシー・ヒル・チームの運営に集中することとなった。レースは終盤豪雨に見舞われ、最後まで走っていたマシンは6台のみであった[13]。RACは56周でレースが成立したとして、ジョーンズは10位、ブライズは15位となった。第11戦ドイツはエンバシー・ヒルのベストとなった。ジョーンズは5位に入賞したが、ブライズはアクシデントでリタイアした[14]。続くオーストリアでシュトメレンが復帰し、雨で短縮されたこのレースでシュトメレンは16位、ブライズは15位となった[15]。イタリアでブライズは予選6位となり、3列目からのスタートとなった。しかしながらブライズ、シュトメレンの両者ともアクシデントでリタイアしている[16]。最終戦アメリカではブライズのみのエントリーとなったが、5周目にアクシデントでリタイアした[17]。
1975年11月29日の夜、世界チャンピオンのグラハム・ヒルはフランスからロンドンに向けてパイパー・アステカ軽飛行機を操縦していた。乗客はチームマネージャーのレイ・ブリンブル、ドライバーのトニー・ブライズ、デザイナーのアンディ・スモールマン、メカニックのテリー・リチャーズ、トニー・アルコックであった。彼らは1976年用マシンのヒル・GH2をポール・リカール・サーキットでテストし、そこから帰国する途中であった。機はエルスツリー飛行場に着陸し、彼らはそこからロンドンのパーティー会場に向かう予定であった。午後10時頃、機体は濃霧の中アークリーのゴルフコースの林の木々にぶつかった。機体は爆発し、搭乗者は全員死亡した[18][19]。サブマネージャーとメカニック2名のみが残されたエンバシー・ヒルは運営が不可能となり、チームは閉鎖した[20][21]。
(key)(太字はポールポジション, 斜体はファステストラップ)
(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)[22]