ヒュー・カリング・アードレイ・チルダース(英語: Hugh Culling Eardley Childers、FRS、PC、1827年6月25日 - 1896年1月29日)は、イギリス及びオーストラリアの政治家。
オーストラリアの政界で活躍した後、イギリスの政界に転じた。自由党に所属して、ヴィクトリア朝の自由党政権で閣僚職を歴任した。
経歴
娘で画家のミリー・チルダース(英語版)が描いたチルダースの肖像。
1827年6月25日、牧師アードレイ・チルダースとその妻マリア(旧姓スミス)の息子としてロンドンで生まれる[4]。
1845年にオックスフォード大学ウェイダム・カレッジ(英語版)に入学したが、1847年にはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに移る。1850年にバチェラー・オブ・アーツ(BA)の学位を取得(1857年にはマスター・オブ・アーツ(英語版)(MA)の学位を取得)[4]。
結婚したばかりの1850年10月、グレイ伯爵の推薦でオーストラリア・メルボルンへ派遣される。1851年1月には宗派経営学校監督官となり、9月には国立学校委員長となる。1852年からメルボルン、マウント・アレクサンダー、マレー・リバー鉄道会社(英語版)の社長に就任。同年10月にはビクトリア州監査総監(Auditor-General of Victoria)に就任するとともにビクトリア州上院議員となる[4][5]。メルボルン大学創設にも尽力し、同大学の初代副学長に就任している[4]。1853年には税関長・財政会議議員となる[5]。1857年3月にはビクトリア州総代理官(agent-general for Victoria)としてロンドンへ帰国し、鉄道融資のための交渉を行った[4]。
1859年にロンドンのリンカーン法曹院に入学[4]。1860年から1885年にかけてポンテフラクト選挙区(英語版)選出の自由党所属庶民院議員を務める[6]。
自由党に所属し、自由党政権で閣僚職を歴任した。1864年から1866年にかけて第2次パーマストン子爵内閣と第2次ラッセル伯爵内閣において海軍省民政長官(英語版)や財務省金融長官(英語版)を務めた[5]。
第1次グラッドストン内閣では1868年から1871年まで海軍大臣(英語版)を務めた[4][5][6]。軍縮と見せかけて木造艦破棄を推進しつつ、鉄製装甲艦の増強を推し進め、海軍力の近代化を推し進めた[7]。体調不良で同職を辞職したが、1872年から1873年にかけてはランカスター公領大臣として再入閣した[4][5][6]。
第2次グラッドストン内閣においては1880年から1882年まで陸軍大臣を務め、不本意ながら自由党の倹約政策を陸軍省にも導入した[6]。また在任中、グラッドストン内閣はエジプトで発生したオラービー革命を潰すためエジプト出兵を行うことを決定し[8]、チルダースは陸軍大臣として熱意を持ってその戦争指導にあたった[6]。ついで1882年から1885年にかけて財務大臣を務めた[4][5]。イギリスの半植民地エジプトの属領スーダンで発生したマフディーの反乱をめぐってマフディー軍に包囲されたチャールズ・ゴードン将軍に救援軍を派遣を送るか否かの閣内論争では、1884年4月頃までは立場を曖昧にしていたが、7月頃には派兵賛成派に転じている[9]。
1885年の総選挙ではポンテフラクト選挙区において落選したが[6]、1886年2月から7月の第3次グラッドストン内閣には内務大臣として入閣し、グラッドストンのアイルランド自治法案に協力した[5]。アイルランド自治法案否決後の1886年の総選挙では南エディンバラ選挙区(英語版)からアイルランド自治派として当選した[6]。
1892年に議員生活から退いた[6]。1894年から1896年にかけてアイルランド財政問題委員会の議長を務めた[5]。1896年1月29日にロンドンで死去した[4]。
栄典
家族
1850年にエミリー・ウォーカー(Emily Walker)と結婚し、彼女との間に4人の息子と2人の娘を儲けた。娘の一人が画家のミリー・チルダース(英語版)である。1875年に妻と死別した。1879年にキャサリン・ギルバートと再婚した[4]。
脚注
注釈
出典
参考文献
外部リンク