ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国
Magyarországi Szocialista Szövetséges Tanácsköztársaság (ハンガリー語 )
国の標語: Világ proletárjai, egyesüljetek! (ハンガリー語) 万国の労働者よ、団結せよ! 国歌 : Internacionálé (ハンガリー語) インターナショナル ハンガリーの地図(1919年)
ルーマニア支配地域
ハンガリー評議会共和国
フランス軍・ユーゴスラビア軍支配地域
1918年時点のハンガリーの国境
1920年時点でのハンガリーの国境
ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国 (ハンガリーしゃかいしゅぎれんぽうソビエトきょうわこく、ハンガリー語 : Magyarországi Szocialista Szövetséges Tanácsköztársaság )は、1919年 3月21日 に成立し、8月6日 まで続いたハンガリー における共産主義 体制国家である。
概要
「ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国 」と言う国名は、将来的には周辺の諸民族の評議会共和国と連邦国家を作る、という目標から付けられた名称であり、正確な日本語訳は「ハンガリー国社会主義連邦評議会共和国」である。これは magyar だと「ハンガリー民族の」という意味にもなるため magyarországi とすることで、ハンガリーに居住する全ての民族の国家であることを標榜するためであった。ハンガリー評議会共和国 、ハンガリー・ソビエト共和国 などの表記も見受けられる。
この国家は、ロシア においてボリシェヴィキ が十月革命 で権力を掌握して以降に、ヨーロッパで初めて成立した共産主義国家であった。この評議会共和国(ソビエト共和国)はルーマニア 軍がブダペスト を占領した際に崩壊し、4ヶ月しか存続しなかった。国家はルーマニア軍がハンガリー から撤退した後に復活したハンガリー共和国臨時政府 を経て、ハンガリー王国 (第二王制)に継承されている。
同政権の崩壊は、ボリシェヴィキがヨーロッパ への共産革命輸出を断念する一因となった。
前史
ハンガリー民主共和国
第一次世界大戦 後にオーストリア=ハンガリー帝国 が崩壊し、新たに誕生したハンガリー民主共和国 (第一人民共和制)のカーロイ・ミハーイ (ハンガリー語版 、英語版 ) 大統領が国内の社会と経済の運営に失敗したことが、ハンガリー・ソビエト共和国が成立した直接の原因であった。
ハンガリー革命
ブダペストの議会入口でソビエト共和国樹立を宣言するクン・ベーラ
ハンガリー共産党 はこの頃は小規模であったが、そのメンバーは活動的で急速に拡大し始めていた。党の最初の中核はこの数か月前の1918年 11月4日 にモスクワ のホテルで結成され、ハンガリー軍の捕虜や共産主義シンパが中央委員会を構成した。クン・ベーラ に率いられた彼らは直ちにハンガリーへ帰国し、党員を募集し、党の理想を普及させて、その過程で多くの社会民主主義者たちを過激化させていった。1919年2月までに党員は30,000から40,000人となり、これには多くの失業者、若いインテリそして少数民族が含まれていた[ 1] 。
クンは「ヴェレシュ・ウーイシャーグ」(Vörös Újság :「赤い新聞」)を創刊し、カーロイ政権を集中的に攻撃した。続く数か月間に共産党の勢力基盤は急速に拡大した。彼らの支持者はメディアに対して過激なデモを敢行し始めた。2月20日 にはデモ隊が暴走して社会民主党機関紙「ネープサヴァ」 (Népszava :「人民の声」)編集部を襲撃する事件が起こり、警官を含む7人が死亡している。政府はハンガリー共産党のリーダーたちを逮捕し[ 1] 、「ヴェレシュ・ウーイシャーグ」を発禁とし、共産党の建物を閉鎖した。この逮捕は乱暴で、警官は公衆の面前で共産主義者たちを殴り倒した。これは共産党への民衆の同情を生む結果となってしまった。3月1日 に「ヴェレシュ・ウーイシャーグ」は再発行を許可され、共産党の建物は再び開放された。リーダーたちには面会が許されるようになり、これによって彼らは党の指導を維持することができた。
3月20日 、カーロイ大統領はベリンケイ・デーネシュ政権 の退陣を発表。翌21日、カーロイは閣僚会議に対して国民からの支持が高い社会民主党単独による新政府を発足させるよう伝えた。だが、社会民主党は連立政権 を作るために、まだ獄中にあった共産党のリーダーたちとの話し合いを始める。そして、二つの党が合併してハンガリー社会党をつくることが決まった。反共主義者 だったカーロイ大統領はこの合同について全く知らされていなかった。このため、社会民主党の政府を指名したにもかかわらず、共産党の支配と直面する羽目となってしまう。
新たに統一された社会党はレーニン のモデルを模倣して革命統治評議会(Forradalmi Kormányzótanács )[ 3] と呼ばれる政府を組織し、ハンガリー・ソビエト共和国の成立を宣言(もっとも、国名に冠しているにもかかわらず労働者評議会(ソビエト )は直接参加していない)、民主共和国成立から6ヶ月後の3月21日にカーロイ大統領は社会民主主義者 と共産主義者によって辞職させられた。
国内政策
レーニン少年隊(Lenin-fiúk )
革命統治評議会は社会民主主義者と共産主義者の連合であったが、クンを除く全ての政治委員が元社会民主党員であった。ガルバイ・シャーンドル (英語版 ) が革命統治評議会議長となったが、実権は外交部委員長のクンにあった。クンに率いられた新政府は全面的な共産化を採用し、貴族 称号と特権の廃止、政教分離 、週8時間労働 と男女同一賃金 、言論 と集会の自由 、無料教育そして少数民族 に対する言語と文化の権利を成文化した(もっとも、実行はされなかったが)[ 1] 。
革命統治評議会は裁判所を廃して革命法廷を置き、工業と商業、住宅、輸送、銀行、医療、文化施設、そして40ヘクタール以上の農地を国有化した。共産主義政権に対する国民の支持は帝国時代の国境線の回復という公約に強く依拠していた[ 1] 。
ソ連 に向けたラジオ放送で、クンは「プロレタリアート独裁 」がハンガリーにおいて樹立されたことをレーニンに伝え、ソ連との同盟を要請した [ 1] 。だが、ロシア内戦 を戦っていたソ連はこれを拒否してしまう。ハンガリー政府は自身で対処せねばならなくなり、警察・憲兵隊を再編してラーコシ・マーチャーシュ を指揮官とする赤衛軍がつくられた。
これに加えて、ルカーチ・ジェルジ [ 7] やサムエリ・ティボルといった党の理論家たちは「革命的テロ 」の必要性を主張し、彼らの支持のもとチェルニ・ヨージェフは約200人のレーニン少年隊(Lenin-fiúk )の名で知られる分遣隊を組織した。彼らは「反革命」を見つけ出し、粉砕するため地方へ送られた。彼らと同様の組織がブダペストでも活動している。
レーニン少年隊とその他の同様の集団は多数の人民を殺害し、弾圧 した。例えば手榴弾 で武装した彼らが銃床を用いて宗教 儀式を力づくで解散させたこともあった[ 8] 。彼らは裁判 なしに処刑を行った[ 9] 。これは地方の住民 との衝突を引き起こし、時には暴動 に発展している。
外交政策
ルーマニアによるトランシルヴァニア併合
赤軍兵士に演説するポガニィ・ヨージェフ。
この頃のハンガリーはトランシルヴァニア をルーマニア に占領され(ルーマニアによるトランシルヴァニア併合 (ルーマニア語版 、英語版 ) )、ルーマニア軍は更に進んでティサ川 まで前進しており、国土を守れず退陣したカーロイから代わったクンを中心としたソビエト共和国には国土回復が期待されていたが、4月にティサ川周辺でルーマニア軍と戦い敗退している。
スロバキア進攻
北部は大戦後に建国されたチェコスロバキア に占領されてしまっていたため、クンは北部を占領する新生チェコスロバキアを狙った。大戦後に新生チェコスロバキアにハンガリー民族が多数を占める土地が与えられたのは不正であるとの大義名分のもと、1919年5月末にハンガリー赤軍が上ハンガリー(現在のスロバキア )へ進攻した。これは連合国軍事代表がハンガリーに対して、より一層の領土割譲を要求した直後であり、クンはハンガリーの国境を回復するという公約を果たそうとしたのである。有能なシュトロムフェルド・アウレール大将に率いられたハンガリー軍は北方へ進攻し、幾つかの軍事的成功を収め、チェコスロバキア軍を北部から駆逐し、チェコスロバキア領の一部を占領。ハンガリー共産主義者たちはこの地に傀儡国家スロバキア・ソビエト共和国 を樹立した。そして、東部のルーマニア軍へ向けて進軍を計画する。
ハンガリー・ルーマニア戦争
北部からの撤退
この軍事的勝利にもかかわらず、クンはルーマニア軍がティサーントゥールから撤退するというフランス の約束を信じて、3週間後には軍を撤退させてしまった。この妥協は国民の支持を失わせることになった。ハンガリー赤軍は北部から撤退したが、ルーマニア軍は撤退しなかった。そのため、クンはハンガリー赤軍にルーマニア軍を攻撃させたが、ルーマニア軍は弱体なハンガリー赤軍を7月30日 までに撃退し、8月1日 にクンのソビエト共和国を打倒するためブダペストへ向けて追撃を開始した[ 10] [ 11] 。
赤色テロ
ハンガリー・ソビエト共和国の指導者サムエリ・ティボル、 クン・ベーラ 、 ランドレル・イェネー。ブダペスト 市内のモニュメント。
これより前に軍事的冒険の失敗と国内の改革の失敗により、共産党への国民の支持は衰えていた。これは最も忠実な共産党員たちが戦場へ行ってしまったことにもよる。
そして、6月24日 、社会民主主義者たちは政府の主導権を奪い返そうとクーデター を企てたが失敗してしまう。これによりドフチャーク・アンタル (Dovcsák Antal) 革命統治評議会副議長らは大規模な報復を決意し、共産主義者たちは反対者を弾圧し、彼らの体制に対する“敵”を抹殺するための報復テロを敢行し始めた(赤色テロ )。徴発隊は家々を略奪し、民兵集団が“敵”またはその嫌疑のある者を逮捕した。彼らによる膨大な件数の残虐行為や処刑そして犯罪が記録されている[ 12] [ 13] 。
革命法廷は590人を処刑している。この内の幾分かは「反革命罪」による処刑だが[ 14] 、一般犯罪や反抗に対する者も多かった[ 15] 。(一説には処刑者は370人から587人とある[ 16] )。
7月末にティサ川前線でハンガリー赤軍がルーマニア軍に敗れ総崩れになったことで、8月1日、クンは他の共産党幹部とともにオーストリア へ向けて逃亡 した[ 1] 。この際、著名なマルクス主義 哲学者で文化委員だったルカーチ・ジェルジ を含む少数が共産党地下組織をつくるためにブダペストに残留している。
ルーマニア軍のブダペスト占領とソビエト共和国の終焉
ブダペストに入るルーマニア軍
ブダペスト労働評議会は社会民主主義者のペイドル・ジュラ (英語版 ) を首相とする新政府を選んだが数日しか持たず、8月4日 にルーマニア軍がブダペストを占領し、6日にナショナリスト によってペイドル政権は倒され、ハンガリー・ソビエト共和国は消滅した。ペイドルは一時オーストリアに亡命したが、1921年 に帰国した。
クンは最終的にソ連へ亡命できたが、赤色テロを主導したサムエリはオーストリアへ逃れたものの捕えられ、8月2日 に殺害されている。レーニン少年隊指揮官だったチェルニ・ヨージェフは逮捕され、1919年11月に裁判にかけられたが、ハンガリー法律家協会は彼の弁護を拒否したため、裁判所によって弁護人 が選ばれている[ 18] 。チェルニは12月に処刑された。
ソビエト共和国の崩壊とルーマニア軍の占領による権力空白の中で、ベトレン・イシュトヴァーン とホルティ・ミクローシュ ら保守 派がハンガリー西部を次第に支配するようになり、ルーマニア軍の撤退開始後にブダペストに入り、ハンガリー共和国臨時政府 として政権を掌握した。
不正規兵の独立部隊(名目的にはホルティの指揮下だが、実際は自発的な)が共産主義者、左派 そしてユダヤ人 を迫害 し始めた。これは白色テロ として知られる。ハンガリー・ソビエト共和国の支持者の多くが裁判なしに処刑され、または裁判の上、投獄された。彼らの多くは、ホルティの統治期の1921年 にソ連とハンガリーが結んだ捕虜交換協定によって恩赦を与えられて、ソビエトへ送られている。最終的に415人の囚人がこの協定でソ連へ出国した[ 19] 。クンと何人かのハンガリー共産主義者たちは1930年代にスターリン の大粛清 の犠牲となっている[ 1] 。
脚注
^ a b c d e f g The Library of Congress Country Studies - Hungarian Soviet Republic
^ 日本語訳はパムレ―ニ・エルヴィン ; 田代文雄 ; 鹿島正裕 ら(『ハンガリー史2』 )による
^ Lukács: Social Hinterland of White Terror ; Lukács: Article in Népszava , 15. apr. 1919.
^ Kodolányi, János (1979) [1941] (Hungarian). Süllyedő világ . Budapest: Magvető. ISBN 9789632709352 . OCLC 7627920
^ See resources in the article Red Terror .
^ “Magyar Tudomány 2000. január ”. Epa.niif.hu. 2008年11月21日 閲覧。
^ Ignác Romsics: Magyarország története a XX. században, 2004, p. 134
^ Honismeret 2003
^ A modernizacia kora 2003
^ U.S. Library of Congress. Hungarian Soviet Republic . Country study
^ Tibor Hajdu. The Hungarian Soviet Republic . Studia Historica. Vol. 131. Academiae Scientiarum Hungaricae. Budapest, 1979
^ Sorensen: "Did Hungary Become Fascist?"; see Leslie Eliason - Lene Bogh Sorensen: Fascism, Liberalism, and Social Democracy in Central Europe : Past and Present, Aarhus Universitetsforlag, 2002, ISBN 87-7288-719-2
^ "Magyar Reds On Trial," New York Times , November 27, 1919
^ 2000 - BŰN ÉS BŰNHŐDÉS Archived 2007年5月30日, at the Wayback Machine .
参考文献
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Janos, Andrew C. ; Slottman, William (editors) (1971). Revolution in perspective : essays on the Hungarian Soviet Republic of 1919 . University of California, Berkeley, Center for Slavic and East European Studies
Menczer, Bela "Bela Kun and the Hungarian Revolution of 1919" pages 299-309 Volume XIX, Issue #5, May 1969, History Today History Today Inc: London, United Kingdom.
Pastor, Peter, Hungary between Wilson and Lenin : the Hungarian revolution of 1918-1919 and the Big Three , Boulder, Colorado: East European Quarterly ; New York : distributed by Columbia University Press, 1976.
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Volgyes, Ivan (editor) Hungary in revolution, 1918-19 : nine essays Lincoln : University of Nebraska Press, 1971.
和書
外部サイト