ツーソン会議 (Tucson conference) は、アリゾナ大学意識研究センターが主催する、意識に関する国際会議である。哲学、神経科学、認知科学、その他さまざまなバックグラウンドを持つ研究者たちが、意識の問題を議論するために集合する、学際性の高い学術会議。意識研究のひとつのメッカ。正式名称は Toward a Science of Consciousness(略:TSC、意味:意識の科学に向かって)だが、名前が長いため一般にツーソン会議または意識に関するツーソン会議などと呼ばれる。
偶数年はアリゾナ州のツーソンで開催され、奇数年はそれ以外の世界のどこかで開催される。参加者数は数百名から1000名ほど。
ツーソン会議の1つの特徴はその学際性の高さにある。神経科学、哲学、医学、物理学、生物学、心理学、人類学から、計算機科学者、ロボット研究者、人工知能研究者、宗教家、そしてスピリチュアル系の実践者まで、非常に幅広い分野の発表者が集まる。学際性があまりに高いため、他分野の人間であっても、ある程度は理解できるような発表をするよう推奨されている(例えば業界特有の専門用語で埋め尽くされた発表は行わない等)。
ツーソン会議は、麻酔科医のスチュワート・ハメロフ、非線形力学の研究者アルウィン・スコット、神経心理学者アルフレッド・カズニアックら3名のアリゾナ大学の研究者の呼びかけによって始められた。第1回の会議は1994年に開催され、世界中から様々な分野の研究者約300名が集まった。
ツーソン会議のひとつの方向性を形作ったのは、哲学者デイヴィッド・チャーマーズが第1回会議の3番目の講演として行ったハード・プロブレムについての講演である。以下は当時の状況をふりかえる主催者ハメロフの言葉。
彼[デイヴィッド・チャーマーズ]は第一回会議のときに、あまりおもしろいとはいえない始まり方をした哲学のオープニングセッションでその後の会議の色合いを決定付けた人間だった。最初の二人の講演者が何の焦点もない話をしたので、私は内心不安を感じ始めていました―「この会議はいったいどうなるんだ?」とね。三番目に登場したのがチャーマーズだった。彼はいわゆる「ハードプロブレム(難しい問題)」について話したが、見事な講演だった。われわれが「なぜここに集まっているのか」を、このとき彼が定義したのです。[....]重要なのは彼の話を信じるか信じないかではない―実際多くの人は信じないのです。彼が、意識をめぐる今日の状況を明確に提示したことが重要だったのです。タイミングもよかった。彼の話が終わると最初のコーヒーブレイクに入り、とたんに皆がいっせいにハードプロブレムについてしゃべり始めたのです。「あのチャーマーズという男はクレイジーだね」とか、「彼は間違っている」「いや、正しい」と議論が沸騰した。チャーマーズの話が論争の範囲を区切り、同時にその両極を決めたのです。—スチュワート・ハメロフへのインタビュー 『最新 脳科学 心と意識のハードプロブレム』収録
会議は盛況の内に幕を閉じ、周囲の評価も高かったという。しかしハメロフは当初第2回会議を開く気はなかった。他のだれかが流れを引き継いでくれると思っていたという。実際サンフランシスコの神経科学者のグループがこの流れを引きつごうとしたが、それはすぐに難しい状況に直面した。それはグループの分裂だった。C.P.スノーの「2つの文化」ではないが、すぐさまある種の断絶が現れたという。つまり神経科学者は神経科学者たちだけで会議を開こうとし、他を追い出してしまった。これがハメロフに第2回会議を開かせることを決心させた。以下、当時の状況を振り返るハメロフの言葉。
われわれは意識にたいするどんなアプローチも正しい可能性を秘めていると考え、すべてを包含する“傘”となろうとして会議を構想したのです。しかしそのような統合的な方針は彼らの間では機能しなかった。神経科学のグループは現象論的なグループといかなる形でも関わることを拒否したのです。私も個人的には超心理学というものをそれほど信用してないが、超心理学や瞑想や神秘主義のような主観的な取り組み方はいっさい排除すべきだと頭から決めてかかる態度も好きではない。ある方法論が正しいか正しくないかの判断は、証拠に基づいて行うべきだと考えているからです。サンフランシスコの神経学者たちはすべてを取り込む学際的なアプローチはとろうとせず、そのためこの試みは空中分解してしまった。そうした経過があって、我々は2年後の96年4月に二回目のツーソン会議を開くことに決めたというわけです。—スチュワート・ハメロフへのインタビュー 『最新 脳科学 心と意識のハードプロブレム』収録
その後、1年おきに会議が開催され(偶数年はツーソンで開催、奇数年はアメリカ以外の別の国の都市で開催)、現在に至る。
参加者の一部を示す。
1994年、1996年、1998年、1999年のそれぞれの会議の模様をまとめた書籍が出版されている。