Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

チーム・スコット

チーム・スコット
ガボール・タルマクシ (2009年)
2010年
チーム名
RSM・チーム・スコット (Moto2)
本拠地 本部オフィス サンマリノの旗 サンマリノ
技術部門 イタリアの旗 イタリアチェゼーナ
代表 チラーノ・ムラローニ
ライダー 15 アレックス・デ・アンジェリス (Rd.1-7)
59 ニッコロ・カネパ (Rd.1-8,10)
マシン スコット・フォース・GP210 (Rd.1-8)
スッター・MMX (Rd.10)
タイヤ ダンロップ
ライダーズ
チャンピオン
2
125cc 2004年 アンドレア・ドヴィツィオーゾ
250cc 2009年 青山博一

チーム・スコット ( Team Scot ) はかつてロードレース世界選手権に参戦していたレーシングチーム。

チームの経歴

1992年、チーム代表のチラーノ・ムラローニと、イタリアの建設会社 Scot Costruzioni の社長 Giovanni Torri によって設立された。チームの本部オフィスはサンマリノにあり、技術部門がイタリアチェゼーナにある。1994年から2009年までは、チームは全てのカテゴリでホンダのマシンを使い続けた。

アンドレア・ドヴィツィオーゾは、7年もの間チームに在籍していた。2002年に125ccクラスにデビューし、2004年に同クラスチャンピオンを獲得。2005年に250ccクラスにステップアップ後もチーム・スコットに在籍した。

ドビツィオーゾは2005年にシリーズ3位になり、2006年2007年には連続でシリーズ2位を獲得するなど、他メーカーに比べてあまり積極的に開発が行われていなかったホンダ・RS250RWで大健闘を見せた。

2008年、ドヴィツィオーゾはチームと一緒に最高峰MotoGPクラスにステップアップを果たす。チーム・スコットは、前年までの3年間コニカミノルタ・ホンダの名前で参戦していたJiRと共同でMotoGPチームを運営することになった。ドヴィツィオーゾの1台体制で臨み、ホンダのサテライト・チームの中では最も健闘した。表彰台を獲得し、他にもトップ5以内でのフィニッシュを6回記録、シリーズ5位の成績を収めた。

2009年シーズンはJiRとの共同体制を解消し、チーム・スコットが単独でMotoGPチームの運営を継続することになった。当初は、ワークスのレプソル・ホンダチームに抜擢されたドヴィツィオーゾに代わり、250ccクラスからステップアップした高橋裕紀の1台体制で臨んだが、第6戦カタルニアからはガボール・タルマクシが加入し、2台体制になった(タルマクシは125cc時代の2006年に在籍していたことがあるため、チームに復帰という形になる)。しかし、第8戦アメリカGPを前に高橋裕紀は契約を解除され、タルマクシの1台体制となった[1]。高橋、タルマクシの両名とも最下位近辺の常連となってしまい、成功は収められなかった。

一方、この年が最後の開催となった250ccクラスではKTMから移籍してきた青山博一が見事チャンピオンを獲得、125ccクラスからステップアップしてきたラファエレ・デ・ロサがシリーズ6位でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得するという大活躍を見せた。

2010年、チームは資金難によりMotoGPクラスからは撤退、250ccクラス後継のMoto2クラスにのみ参戦することになった[2]。当初ライダーはニッコロ・カネパアレックス・デ・アンジェリスと、前年MotoGPクラスに参戦した二人が務めた[3][4]が、第8戦ドイツGPからはデ・アンジェリスが青山博一の負傷代役としてMotoGPクラスに復帰したため、しばらくはカネパの1台体制での参戦が続いた。ところがチームは資金面でトラブルに陥り、第10戦チェコGPを前にチームは解散してしまった[5]。しかし残ったスタッフが参戦を継続し、第12戦サンマリノGPからはチーム名を変え「M・レーシング」としてビモータのシャシーでカネパを走らせた[6]第14戦日本GP以降は、カネパに代わり國川浩道がライダーを務めた[7]

かつてチームに在籍していたライダーとしては、ブルーノ・カサノヴァ、ファウスト・グレシーニエミリオ・アルサモラセテ・ジベルナウロベルト・ロカテリアルノー・ヴァンサンマイク・ディ・メッリオらが挙げられる。

脚注

外部リンク

Kembali kehalaman sebelumnya