ジョン・ダグラス・"ダグ"・チャンドラー(John Douglas "Doug" Chandler, 1965年9月27日 - )はアメリカ合衆国カリフォルニア州サリナス出身のオートバイレーサーである。1980年代から1990年代にかけて活躍した多才なライダーとして知られており、AMA史上4人しかいないグランドスラム(マイル、ハーフマイル、ショートトラック、TTのダート4種目とロードレースの全てで優勝すること)を達成したライダーのひとりでもある。2006年にはAMAモーターサイクル殿堂入りを果たした[1]。
略歴
モトクロスで成功を収めたチャンドラーは、その後に始めたオーバルのダートトラックレースでも頭角を現し、1983年にはAMAのルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。ロードレースにおける最初の勝利は1988年のミッド・オハイオ、プロ・ツインズクラスだった。1990年にはマジー・カワサキでAMAスーパーバイクのタイトルを獲得[1]。同年にはスーパーバイク世界選手権にもスポット参戦し、ブレイナードと菅生のレースで勝利している[2]。
1991年、チャンドラーはヨーロッパに渡ってロードレース世界選手権への参戦を開始した。この年はヤマハのサテライトチームから出場してランキング9位を得る。そして翌1992年、スズキのワークス・チームに加入したチャンドラーはいくつかのレースではチームメイトでスズキのエースであるケビン・シュワンツを上回る速さを見せ、シーズンランキング5位を獲得した[3]。
1993年と1994年はイタリアのメーカーであるカジバからグランプリに参戦した。1993年の開幕戦オーストラリアGPで3位表彰台を獲得するという幸先の良いスタートを切ったチャンドラーだったが、チームのサポートは同じアメリカ人のチームメイトであるジョン・コシンスキーの方に集中しており、カジバでの2年間は思うような成績を残すことはできなかった[3][4]。
1994年シーズン終了後にヨーロッパを離れ、翌年からはAMAスーパーバイク選手権に復帰。ハーレーダビッドソンのスーパーバイクマシン開発を担当した1995年は結果を出せなかったが、1996年に古巣のマジー・カワサキに戻ると2度目となるAMAスーパーバイクタイトルを獲得。翌1997年もAMAスーパーバイクチャンピオンとなり、フレッド・マーケル、レグ・プリッドモアに並ぶ3度目のタイトルを獲得した。1998年はスポット出場したスーパーバイク世界選手権ラグナ・セカラウンドで大きなクラッシュを演じたにもかかわらず、ベン・ボストロムに次ぐシーズンランキング2位となった[1]。
2001年までカワサキで走ったチャンドラーは2002年にはドゥカティのマシンで戦った。ランキング8位となった2002年が、チャンドラーがシーズンを通してレースに出場した最後の年となった。しかし2003年にはこの年から始まったAMAスーパーモトにチャレンジし、持ち前の多才ぶりを発揮してこの新しいシリーズでも勝利を記録している[1]。
引退後は、ライディングスクールで講師をしている[5]。
主な戦績
ロードレース世界選手権
- 凡例'
- ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
鈴鹿8時間耐久ロードレース
脚注
外部リンク
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