ステファン・ランビエール (フランス語 : Stéphane Lambiel 、1985年 4月2日 [3] - )は、スイス のフィギュアスケート 選手(男子シングル )。2006年トリノオリンピック 銀メダリスト。2005年 ・2006年世界選手権 優勝、2010年バンクーバーオリンピック 4位。
人物
スイスのマルティニに生まれ、サクソンで幼少期を過ごす。みんなが顔見知りの小さな村から、いつも50人ほどのカウベルを持った応援団がランビエールの試合に駆けつけていたという[4] [5] 。
家族はアルプス 生まれの父、ポルトガル 出身の母[6] 、3歳上の姉、4歳下の弟。フランス語 、ドイツ語 (スイスドイツ語 ではない)、英語 、ポルトガル語 を流暢に話し、さらに現在はイタリア語 と日本語 を学んでいる。2004年 に聖モーリスカレッジで生物学 と化学 のマチュリテ(大学入学資格-高等教育修了証)を得ているが、フィギュアスケートに専念するため大学 進学は見送っている。ジュネーヴ とローザンヌ を練習拠点とし、夏にスイスのリンクが閉まっている間はドイツで練習していた。
スピン と芸術面での評価が高い選手であった[2] [7] [8] 。とりわけスピンはメディアからたびたび「世界一」と評され、彼の代名詞として用いられた[9] [10] 。男子シングル史上初めて演技構成点で9点台をマークした選手である(バンクーバー五輪のショートプログラム )[11] 。
ジャンプでは4回転トウループ やスリーターン から入る3回転ループジャンプ を得意としていた。演技後半にも4回転を跳び、また、4回転からの3連続コンビネーションにも幾度か成功している。一方、3回転アクセル を大の苦手としていた。
経歴
ジュニア
2007/2008 ISUグランプリファイナル
7歳の時、先にスケートをしていた3歳年上の姉と一緒にリンクへ連れて行かれ、芸術性に魅せられてスケートを始める[4] 。その数年後、コーチのペーター・グリュッター と振付師のサロメ・ブルナー に出会う。11歳でスイスノービスチャンピオンとなり、ローザンヌ で開催された1997年世界選手権 のエキシビションに出演した。1997-1998シーズンからジュニアクラスに上がり、スイス選手権ジュニアクラスを2連覇。2種類の3回転-3回転コンビネーションジャンプとスピンに力をいれ、2001年世界ジュニア選手権 では5位に入賞した。
シニア
2000-2001シーズンからはシニアクラスに参戦し、スイス選手権初優勝(以降、2008年大会まで8連覇)。翌2001-2002シーズン、欧州選手権 での4位入賞を評価され、ソルトレイクシティオリンピック と世界選手権 への出場権を獲得する。だが2002年のソルトレイクシティ五輪 では総合15位、続く世界選手権も18位に終わった。
2002-2003シーズンからプログラムに4回転ジャンプと3回転アクセル を積極的に取り入れるようになる。2003-2004シーズンには膝の手術のため2ヶ月の休養に入るが、復帰後に方向性を見失ってスランプに陥る。この時にコーチをセドリック・モノドに変えたがうまくいかず、グルッターとブルナーのもとに戻った[6] 。世界選手権 ではフリースケーティング に2度の4回転を取り入れて4位入賞を果たす。翌世界選手権 では、予選からフリーまで大会を通じて5度の4回転ジャンプを成功させ、スイスの男子シングル選手として58年ぶりの世界チャンピオンになった。
2005-2006シーズン、グランプリファイナル 初優勝、欧州選手権 2位と活躍を見せた。2006年のトリノオリンピック 直前には膝を怪我していた[5] が、そのトリノ五輪 男子シングル本番では、ショートプログラム で3位発進。フリーでは4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループのジャンプを成功させるも、細かなミスも有って4位だったが、総合で2位入賞を果たし銀メダルを獲得(金メダル獲得はロシア のエフゲニー・プルシェンコ )。五輪で2位の表彰台に登ったランビエールは感極まって男泣きしていた。続く世界選手権 ではスイス選手では初めてとなる2連覇を達成した。
2006-2007シーズンは、オリンピックでの銀メダル獲得や世界選手権を2連覇したことから競技に対する情熱を失ってしまい[12] 、アイスショー「アート・オン・アイス」に出場するなど、将来への模索があったという。グランプリシリーズ スケートカナダ ではショートプログラム7位から逆転優勝したが、NHK杯 はウイルス性の風邪で棄権[5] 。スイス選手権7連覇を果たしたが、1月に入ってから「内なる炎がなくなった」として欧州選手権 を棄権した[12] [13] 。その後、ショーで観客の声援を受けたことで世界選手権 を決意し[13] 、銅メダルを獲得。2007年以降も競技会続行する意志を表明した。この試合で競技用プログラムとして初披露されたアントニオ・ナハーロ振り付けのフリープログラムの「ポエタ」は代表作となり、その後エキシビションやアイスショーで何度も滑っている。
2007-2008シーズン、グランプリシリーズ 中国杯 、ロシア杯 では、技術的にはやや精彩を欠きながらも演技構成点では高評価を得て表彰台には上がり続け、グランプリファイナル ではショートプログラム 2位から逆転優勝、欧州選手権 も2位となったが、世界選手権 では精彩を欠き5位、3シーズンぶりの台落ちとなった。練習環境の改善を求めて、長年師事してきたピーター・グルッターを離れ、アメリカ ニュージャージー州 ウェインでヴィクトール・ペトレンコ の指導を受け始める[1] 。しかし、2008年世界選手権中に痛めた左足内転筋[14] [15] の回復が思わしくなく、満足に練習できないとして10月に引退を表明[16] 。プロスケーターとして活躍する傍ら、コロンビア の貧しい子供達のために家と学校を建てようというNGO「Moi pour Toit」の活動にも尽力している。
2009年7月25日に公式HPにおいて引退の原因となっていた左足内転筋の痛みが治療によって緩和されたため、翌2010年のバンクーバーオリンピック の出場を目指して競技会に復帰することを表明[17] 、コーチもグルッターに戻した。オリンピックの出場権獲得のためにネーベルホルン杯 に出場し優勝[18] 、スイス選手権も制し、欧州選手権 では2位となった。バンクーバー五輪 男子シングルではSP5位・FS3位ながら共にパーソナルベストを更新したものの、銅メダルを獲得した日本 代表の髙橋大輔 に僅か0.51点及ばず、総合4位入賞に留まり惜しくも二大会五輪メダル獲得はならなかった。
引退後
2010年3月、再び引退を表明[19] 。
再引退後すぐに米ABC で放映されたスペシャル番組『Thin Ice』(有名スケーターが男女でペアを組み、対戦するという内容[20] )では荒川静香 とペアを組んで[21] 総合3位となったが、視聴者投票では1位、と好評を得た[22] 。また、振り付け師としての活動も開始した。2010/2011シーズンの髙橋大輔のエキシビション「アメリ」の振り付けを担当。
2016年8月25日、ラトビア のデニス・ヴァシリエフス のコーチに就任。
2020年より、日本 の宇野昌磨 のコーチに就任。
2022年2月、北京オリンピックに出場する宇野に同行する為、出国前の新型コロナウイルス検査をした際にランビエールの陽性反応が出たが、無症状の為数日遅れで合流した。
主な戦績
詳細
プログラム
出演
ユーリ!!! on ICE (2016年12月21日) - 本人 役[27]
「氷艶 hyoen2019ー月光かりの如くー」(2019年7月26日~28日、横浜アリーナ)‐ 朱雀君
脚注
外部リンク
名称の変遷: スケートカナダ(1973年-現在) / ISUグランプリシリーズ スケートカナダ(1995年-現在)