ジュスク

ジュスクモンゴル語: ǰüsüg,中国語: 種索生没年不詳)とは、モンゴル帝国に仕えたジャジラト部出身の左翼千人隊長。兄のクシャウルとともに諸族混成の3千人隊を率いていた。

元史』などの漢文史料では種索(zhŏngsuŏ)など。

概要

『元朝秘史』によると、ジュスクはチンギス・カンがジャムカと決別した頃にチンギス・カンの下に帰参したという[1]1206年に帝国の幹部層たる千人隊長(ミンガン)に任ぜられた[2]が、『元朝秘史』ではテムゲ・オッチギンの王傅とされたと記される[3]一方、『集史』では中軍左翼に所属していたと記されており、両者の記述には矛盾がある。なお、『集史』では「クシャウルとジュスクの兄弟」として名前が挙げられているが、村上正二は「クシャウル」は「一対にする」を意味するテュルク語動詞qošmaqから派生した称号であり、実在しない人物であるとしている[4]

チンギス・カンによる金朝遠征が始まるとこれに従軍し、チンギス・カンの帰還後もムカリに従って金朝領に駐屯し続けた[5]。『集史』にはこの頃のジュスクらに関して、「[クシャウルとジュスクの兄弟は]ヒタイ(契丹)とジュルチャ(女真)の地方を征服する時、鎮護素・カンは、彼等二人が俊足の偵察兵として優れていたことにより、モンゴル人全員から10人ごとに2人を出させて、その内の3千人を彼等に与え、その辺境を彼等に委ねて、その勢力の範囲で守備させた」とある。「モンゴル兵と現地徴発兵の混成軍」「モンゴル本土に帰還せず、占領地に駐屯する」というのは第2代皇帝オゴデイによって始められたタンマチ(タマ軍)と共通する性格であり、クシャウル・ジュスクの3千人隊が後のタンマチの原型となったと考えられている[6]

脚注

  1. ^ 村上1970,221/225頁
  2. ^ 村上1972,343/370頁
  3. ^ 村上1976,106頁
  4. ^ 村上1970,739-740頁
  5. ^ 『聖武親征録』「戊寅、封木華黎為国王、率王孤部万騎・火朱勒部千騎・兀魯部四千騎・忙兀部将木哥漢札千騎・弘吉剌部按赤那顔三千騎・亦乞剌部孛徒二千騎・札剌児部及帯孫等二千騎、同北京諸部烏葉児元帥・禿花元帥所将漢兵、及札剌児所将契丹兵、南伐金国」
  6. ^ 川本2015,59-60頁

参考文献

  • 川本正知『モンゴル帝国の軍隊と戦争』山川出版社、2013年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年

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