アランタ (HMAS Arunta, I30/D130 ) は、オーストラリア海軍 の駆逐艦 。トライバル級 。艦名はアボリジニ の一部族であるアランテ族 (en ) にちなむ。本艦は「アランタ」の名を持つ初めての艦であった。
艦歴
アランタは1939年 1月にオーストラリア海軍局 (Australian Naval Board)に発注され、ニューサウスウェールズ州 シドニー のコッカトゥー島造船所 で1939年 11月15日に起工[ 1] 。アランタはオーストラリア海軍のトライバル級駆逐艦では最初の艦であった[ 3] 。その後1939年11月30日にオーストラリア総督 夫人ザラ・ゴウリー の手で進水したが、アランタの艦体は船台の中ほどで停止してしまい、完全な進水は翌日に持ち越しとなった[ 4] 。建造費は500,000AUP であった。アランタは竣工の一か月前である1942年 3月30日に就役した[ 5] 。
第二次世界大戦
アランタは1942年5月17日にニューサウスウェールズ州沖で対潜哨戒を行い、最初の作戦行動を開始した[ 3] 。これらの任務の中で特筆すべきものとして、5月16日にアメリカ海軍 の駆逐艦パーキンス とオランダ海軍 の軽巡洋艦 トロンプ と共に成果のない対潜哨戒任務中にロシア 船ワレン(Wellen)への発砲と調査を行ったことが挙げられる。5月18日、アランタとトロンプは、シドニーからポートモレスビー へオーストラリア陸軍 第14旅団 の将兵4,735名を運ぶオランダ 船4隻からなるZK.8船団を護衛した。
一か月後、アランタはオーストラリア 沿岸を行くいくつかの船団を護衛し、さらに8月初旬にはニューギニア へ向かう複数の船団を護衛した。この任務の中で、アランタは1942年8月24日にポートモレスビー沖合において日本海軍 の潜水艦 呂33 を発見、爆雷 攻撃を加え撃沈した[ 7] 。
1942年9月4日、アランタはポートモレスビーを発ち、ミルン湾 の部隊へ補給物資を運ぶ輸送船 アンシュン (Anshun)とオランダ船ダス・ヤコブ ('s Jacob)からなるQ2船団をスループ スワン と共に護衛した。9月6日の朝にアランタとアンシュンはミルン湾に入り、アンシュンはギリギリ(Gili Gili)のポンツーン 浮桟橋 に横付けすると荷下ろしを始め、安全のため夜間は沖に退避した。しかし、アランタがスワンとダス・ヤコブと合流して南へ向かっている間、現地指揮官からの命令でアンシュンは夜間も物資の揚陸を行うことになった。だがその結果、アンシュンは夜の間に日本の軽巡洋艦天龍 と駆逐艦嵐 に攻撃されて沈んでしまった(ラビの戦い )。
1943年 1月、アランタは船団護衛任務へ戻る前にティモール から連合軍 のゲリラ を脱出させた[ 9] 。同年5月にアランタはアメリカ海軍第74任務部隊(Task Force 74)に参加するため船団護衛任務から解放された[ 3] 。
アランタはウッドラーク島とキリウィナ島への上陸作戦であるクロニクル作戦 に参加、7月には第74任務部隊から離れ、オーストラリア周辺で哨戒と船団護衛、改装を行った後、10月29日にブリスベン で第74任務部隊に復帰した。以降は11月5日までミルン湾でオーストラリア海軍の重巡洋艦 オーストラリア、シュロップシャー 、駆逐艦ワラムンガ とアメリカ海軍の駆逐艦ラルフ・タルボット 及びヘルム と行動した。
駆逐艦ニコラス から見たアランタ。1943年7月撮影。
11月下旬、アランタはニューギニアの日本軍 弾薬集積所を砲撃し、1943年12月から1944年 1月までアラウェの戦い 、グロスター岬の戦い 、セイダー上陸 を支援した[ 3] 。3月、アドミラルティ諸島の戦い に伴い第7騎兵連隊 をアドミラルティ諸島 へ輸送し、上陸後の支援砲撃を行った。4月から9月にかけては、ホーランジアの戦い 、ワクデの戦い (ここでアランタは日本兵1名を捕虜にした)、ビアク島の戦い 、ヌムフォア島の戦い 、サンサポールの戦い 、モロタイ島の戦い と各地を転戦し上陸支援を行った[ 3] 。
ホーランジア 上陸を支援するアランタの砲手。
続いて10月13日にアランタはフィリピン のレイテ湾 へ向かう艦隊に加わった。アランタはアメリカ海軍のハッチンス 、バッチ 、ダリー 、キレン 、ビール からなる第24駆逐艦戦隊(Destroyer Squadron 24)に加わり、10月25日のスリガオ海峡海戦 で西村祥治 中将率いる戦艦山城 、扶桑 、航空巡洋艦 最上 と駆逐艦4隻からなる第一遊撃隊第三部隊を迎撃した[ 9] 。アランタは日本 の駆逐艦時雨 に魚雷 攻撃を行ったが外れた[ 11] 。日本艦隊は壊滅したが、時雨は猛烈な砲雷撃を逃れ脱出に成功した。
詳細な時期は不明ながら、1944年から1945年にかけてアランタの塗装はそれまでのオーストラリア海軍のグレー二色(MS4・507a)迷彩 からアメリカ海軍の濃いブルー一色の塗装に変更されている[ 12] 。
アランタの至近に特攻機が落下した瞬間を捉えた写真。
1945年 1月5日、レイテ島の戦い で上陸を援護中だったアランタは神風特別攻撃隊 の特攻機による攻撃を受け、直撃は避けられたものの1機がアランタの至近に突入し乗員2名が死亡した[ 3] 。2月13日から15日にかけてアランタと姉妹艦ワラムンガはリンガエン湾 を出発しマニラ の西方約480km海上へ展開、北号作戦 でシンガポール から日本本土へ向かう日本海軍の航空戦艦 日向 、伊勢 、軽巡洋艦大淀 と駆逐艦3隻からなる艦隊(完部隊 )を攻撃するアメリカ陸軍航空隊 の航空機 が被撃墜あるいは不時着した場合の搭乗員救助に備えた。しかし悪天候により航空攻撃は行われず、何も起こらなかった。完部隊は全艦が無事に日本へ到着した。
アランタは3月から4月にかけて改装が行われた後、5月10日から11日にアイタペの戦い で第6師団 を支援した。6月10日にはブルネイ湾の戦い で第9師団 を支援し[ 3] 、6月下旬には7月1日の上陸に先立ちルートンとバリクパパン の敵陣地を砲撃している[ 3] 。それからアランタはシドニーのコッカトゥー島 に戻り改装中に終戦 を迎えた。
戦後
改装完了後の1945年10月、アランタはイギリス太平洋艦隊 (BPF)に加わりイギリス連邦占領軍 (BCOF)に参加した[ 3] 。1946年 3月まで日本近海で行動した後、極東艦隊 の展開としてパプアニューギニア とフィリピンを巡航する。再び日本に戻ったアランタは1947年 4月初めまで留まっていた[ 3] 。1948年 6月にアランタはいくつかのメラネシア の島々を訪問、1949年 の終わりから兵装・レーダー ・ソナー の更新を含めた近代化改装の準備が始まり、1950年 から実際に作業が行われた[ 3] 。しかし6か月以内の予定で始まった改装は、実際には2年も費やしたため完了時には既に旧式化していた[ 14] 。
改装直後のアランタ。1952年11月撮影。
1952年 11月にアランタは対潜駆逐艦に再分類され現役復帰した[ 15] 。改装後にアランタのペナントナンバー はD130 に変更されている[ 16] 。1953年 いっぱいをオーストラリア周辺で過ごしたアランタは、1954年 1月に朝鮮半島 へ向かい朝鮮戦争 休戦 後の国連軍 による警戒活動を支援した[ 15] 。同年8月にオーストラリアへ戻り1955年 5月まで留まった後、マラヤ連邦 に向かったアランタはイギリス海軍 及びニュージーランド海軍 との共同演習に参加した。アランタとワラムンガはシンガポールで改装を受けた後、オーストラリア海軍艦として初めて極東戦略予備隊 (Far East Strategic Reserve)に加わり、12月まで任務にあたった[ 15] 。その後アランタは1956年 3月から4月にかけてオーストラリア北部を巡航、6月にノーフォーク島 とピトケアン諸島 を訪問した。アランタは1956年6月14日にシドニーで退役し予備役に置かれた。
退役と最期
予備役に置かれたアランタは1956年12月21日に除籍された[ 15] 。その生涯でアランタは357,273海里 (661,670km :411,142マイル )を航海した[ 9] 。アランタは1968年 11月1日まで保管された後、台湾 の台北 にある中国鋼鉄 (China Steel Corporation)にスクラップとして売却された[ 15] 。
アランタの艦体は1969年 2月12日に日本の深田サルベージ建設 の曳船 東興丸によって曳航され最期の地となるはずの台湾へ向かったが[ 15] 、翌2月13日に浸水が発生し、復旧作業の甲斐なく艦を救うことは不可能と判断された。アランタはその日、ニューサウスウェールズ州沖65マイルのブロークン湾 の海底へと消えていった[ 15] [ 17] 。
栄典
アランタは生涯で5個の戦闘名誉章(Battle Honour)を受章した。
Pacific 1942–45 ・ New Guinea 1942–44 ・ Leyte Gulf 1944 ・ Lingayen Gulf 1945 ・ Borneo 1945[ 18] [ 19]
これら5個以外にもアランタは「Guadalcanal 1942」も受章しているが、こちらは受章にふさわしい功績を挙げていないとして後に抹消されている[ 20] 。アランタは第二次世界大戦の大部分をアメリカ海軍第7艦隊 の任務部隊で過ごしたため、オーストラリアの艦艇研究家ヴィック・カッセルズ(Vic Cassells)によれば「アメリカ海軍で最も有名なオーストラリア海軍駆逐艦の一隻であった」という[ 3] 。
脚注
^ Cassells, The Destroyers , p. 17-18
^ a b c d e f g h i j k l Cassells, The Destroyers , p. 20
^ Cassells, The Destroyers , pgs 18, 238
^ Cassells, The Destroyers , p. 18
^ Jenkins, Battle Surface , p. 265
^ a b c HMAS Arunta (I) , Sea Power Centre
^ 岡部いさく著「英国軍艦勇者列伝」大日本絵画刊 (2012年) p141
^ Malcolm George Wright(2014), British and Commonwealth Warship Camouflage of WW II: Destroyers, Frigates, Sloops, Escorts, Minesweepers, Submarines, Coastal Forces and Auxiliaries:Seaforth Publishing ISBN 978-1-84832-205-9 , p41
^ Donohue, From Empire Defense to the Long Haul , p. 171
^ a b c d e f g Cassells, The Destroyers , p. 21
^ https://uboat.net/allies/warships/ship/4437.html
^ Gillett, Ross (1989). Australian Ships . Frenchs Forest, NSW: Child & Associates. p. 129. ISBN 0-86777-107-0
^ “Navy Marks 109th Birthday With Historic Changes To Battle Honours” . Royal Australian Navy. (1 March 2010). オリジナル の13 June 2011時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110613184920/http://www.navy.gov.au/Navy_Marks_109th_Birthday_With_Historic_Changes_To_Battle_Honours 23 December 2012 閲覧。
^ “Royal Australian Navy Ship/Unit Battle Honours ”. Royal Australian Navy (1 March 2010). 14 June 2011時点のオリジナル よりアーカイブ。23 December 2012 閲覧。
^ Cassells, The Destroyers , p. 234
参考文献
外部リンク
関連項目