遊佐町(ゆざまち)は、山形県の最北部に位置し、日本海に面する人口約1万2千人の町。飽海郡に属する唯一の自治体である。
地理
庄内平野の北端に位置し、山形県の最北端に位置する自治体でもある。北には東北地方第二の標高を誇る鳥海山が聳え、中央部には肥沃な庄内平野が広がり、町全体をなだらかに横切るようにして月光川が流れる。町南部の海岸線には砂浜が広がり、夏には釜磯海水浴場、西浜海水浴場などで海水浴を楽しめる。北部海岸線は鳥海山から流れ込んだ溶岩による岩礁が広がっており、良い漁場となっている。
歴史
鳥海山山頂に鎮座する大物忌神を祀った大物忌神社(現:鳥海山大物忌神社)は上古の創建とされ、この地の歴史が深いことが窺える。11世紀から12世紀ごろには遊佐荘という荘園が立荘されており、遊佐氏が在地領主としてこの地を治めていた。南北朝時代に遊佐氏の一族の者が畠山氏に仕え、子孫はそれぞれ河内国、能登国、越中国といった地で守護代を務めるなど、畠山氏の重臣として活躍した。また、戦国期になると砂越氏、板垣氏(石垣氏)、次いで大宝寺氏、上杉氏、最上氏がこの地を治め、江戸期には庄内藩として、信濃国松代藩から移封してきた酒井氏が統治した。
- 酒井氏は入部直後に大規模な検地を行い、表石よりも実石を大幅に増やすことに成功したが、その増えた石高の分まで徴税にまわされた為に民衆は苦しんだ。寛永9年(1632年)、遊佐郷大肝煎高橋太郎左衛門が農民の離散の責を問われて解職・投獄される。翌年釈放されたが藩の暗殺計画を知り、弟の長四郎とともに江戸へ逃れ、寛永11年(1634年)江戸幕府に藩の窮状を示した直訴状を提出する。そこには最上氏時代よりも年貢が二倍近くに増え、凶作でも通年どおりに治めねばならず、年貢を納めるために男女千人ほどが身売り・逃亡したと書かれていた。この直訴は幕府に受理され、以後太郎左衛門は大肝煎に復している。
- 宝暦4年(1754年)、凶作。宝暦5年(1755年)、歴史的大飢饉(宝暦の飢饉)。
- 天保7年(1836年)、青山留吉が遊佐郷青塚(現:同町比子青塚)に誕生する。留吉はその後後志国に渡り道内有数の漁業家に成長する。青塚には彼の偉業をたたえ、鰊御殿とも呼ばれる旧青山本邸が現存する。
沿革
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い飽海郡遊佐町村、白井新田村、野沢村、吉出村、小田原村(一部)が合併し、遊佐村(ゆざむら)が発足。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 町制施行し遊佐町となる。
- 1954年(昭和29年)8月1日 - 飽海郡遊佐町、稲川村、西遊佐村、蕨岡村、高瀬村、吹浦村が合併し、遊佐町を新設。
- 1956年(昭和31年)
- 1月1日 - 酒田市と境界の一部を変更。
- 8月15日 - 酒田市と境界の一部を変更。
- 2003年(平成15年)2月1日 - 酒田市と飽海郡4町(遊佐町、八幡町、平田町、松山町)で「庄内北部地域合併協議会(法定協議会)」を設置[1]。
- 2004年(平成16年)10月6日 - 協議の難航から協議会が休止(事実上の離脱)。その後残りの1市3町は新たに協議会を立ち上げ合併した。この合併の結果、遊佐町は飽海郡に属する唯一の自治体となった[1]。
- 2021年(令和3年)8月30日 - 町役場の新庁舎が完成し、遊佐町遊佐字舞鶴211番地から202番地に移転する[2]。
行政
町長
期
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氏名
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就任
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退任
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備考
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1
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小野寺喜一郎
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1993年(平成5年)3月19日
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2009年(平成21年)3月18日
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元町議会議員
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2
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3
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4
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5
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1
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時田博機
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2009年(平成21年)3月18日
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2024年(令和6年)2月10日
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4期目途中で死去[3][4]
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2
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3
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4
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職務代行者
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池田与四也
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2024年(令和6年)2月10日
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2024年(令和6年)3月23日
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副町長
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1
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松永裕美
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2024年(令和6年)3月24日
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現職
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元町議会議員
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産業・経済
商業
- 本間物産 - 食品スーパーマーケット「マルホンカウボーイ」を運営する会社
- 金龍 - 酒田市の酒造会社。2017年、町内にウイスキーの蒸留所を開設した。
- マルハニチロ中央研究所遊佐試験場
- 鳥海南工業団地
漁業
郵便局
金融機関
姉妹都市
- 国内
- 海外
地域
人口
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遊佐町と全国の年齢別人口分布(2005年)
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遊佐町の年齢・男女別人口分布(2005年)
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■紫色 ― 遊佐町 ■緑色 ― 日本全国
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■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性
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遊佐町(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年)
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21,224人
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1975年(昭和50年)
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20,481人
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1980年(昭和55年)
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20,412人
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1985年(昭和60年)
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20,271人
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1990年(平成2年)
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19,705人
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1995年(平成7年)
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18,895人
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2000年(平成12年)
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18,037人
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2005年(平成17年)
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16,852人
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2010年(平成22年)
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15,480人
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2015年(平成27年)
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14,207人
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2020年(令和2年)
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13,032人
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総務省統計局 国勢調査より
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教育
- 小学校
- 中学校
- 高等学校
- 特別支援学校
交通
鉄道
路線バス
道路
道の駅
空港
- 最寄の空港は庄内空港であり、町内から自動車で移動した場合の所要時間は約40分ほどである。
名所・史跡・祭事等
自然・公園
史跡
寺社仏閣
温泉
祭事・催事
その他
- 国土庁(当時)「水の郷百選」に認定されている。
- 英国ストラトフォード・アポン・エイヴォンと文化交流が盛んで、毎年中学生のホームステイなどが行われている。
- 郵便番号は999-83XX, 999-84XX, 999-85XXであり、郵便番号の数字が最大の市町村である。なかでも遊佐町 菅里 (999-8531) の番号がもっとも大きい。
- 2003年から町の中高生が投票で「少年町長」と「少年議員」を選出する少年議会が行われている[7]。
出身有名人
脚注
参考文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
遊佐町に関連するカテゴリがあります。
外部リンク