『玉置宏の笑顔でこんにちは!』(たまおきひろしのえがおでこんにちは)はニッポン放送で1978年4月3日から1996年3月29日まで放送していたラジオ番組。
当番組のパーソナリティを務めた玉置宏はニッポン放送で『平凡アワー・スタアハイライトショウ』などのパーソナリティを長く務めていた。その縁で平日午前帯ワイド番組に起用された。
玉置は当番組を始めるに辺り、既にテレビで売れっ子になっていたにもかかわらず、居住地の川崎からニッポン放送のある有楽町までの定期券を購入して電車通勤を始め、その道すがらに見たことや感じたことを番組内のトークに取り入れた(この番組の立ち上げに編成担当として関わった亀渕昭信の回想による[1])。玉置はその後、晩年まで電車移動を基本としていた。
主に午前9時台ではほぼ10分に1回、曲を掛けていた。スペシャルウィーク中は電リクを行うことが多かった。
リスナー層は大人の世代が主であったが、夏休み、冬休みなど子供の休暇期間になると子供を意識した放送を行うことがあり、子供を対象にした電話相談、東大生を交えての宿題相談。日記や自由研究のために休み中の天気を全部教えたりしたことがあった[2]。
番組開始直前までニッポン放送は平日午前で苦戦していたが、開始後は常に高聴取率を記録するようになり[1]、ビデオリサーチ社による調査において、首都圏の全ラジオ番組を通じて1位になったこともある(4.0% = 1989年12月の調査 など)。1980年代後半から1990年代にかけては同じく高聴取率を獲得していた『大沢悠里のゆうゆうワイド』(TBSラジオ)と熾烈な聴取率争い(ゆうゆうワイドが3.6% = 同じく1989年12月の調査 など)[3]を演じていた。後に『ゆうゆうワイド』で玉置は腸閉塞で入院した毒蝮三太夫の代役として、2006年の1月から2月15日までの火曜日と木曜日に『ヨークマートミュージックプレゼント』の放送時間枠で放送した『懐かしの昭和歌謡列伝』でパーソナリティを務めた。
1989年4月、『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』を開始してからはパーソナリティの高田文夫が番組に入り易い様に意識して、高田に話題を振って放送を終えた。
当番組が『一杯のかけそば』ブームのきっかけになったと言われている[4]。
オープニングテーマは カラベリグランドオーケストラ『太陽の中の恋』で番組タイトルは森昌子が1974年に発売したシングル『今日も笑顔でこんにちわ』から引用した。放送開始時刻は午前9時だが、開始時のパーソナリティの挨拶を一般的にこの時間に用いられる「おはようございます」ではなく、タイトル通り「こんにちは」に徹底した。
通常はニッポン放送本社の旧糖業会館ビル6階にあった第7スタジオ(レッドスカイスタジオ)から生放送した[4]。直前まで『朝からたいへん!つかちゃんです』の生放送で同スタジオを使用していた塚越孝(ニッポン放送アナウンサー(当時))と遭遇して、共に応援していた横浜大洋ホエールズ・横浜ベイスターズ、共通の趣味であった落語談義に花を咲かせた(後にこれより、後述のリスナーたちと一緒にホエールズを応援しに行くイベント企画を行うことになる)[5]。
2010年、玉置の訃報が伝えられた日の『ビバリー』内で、高田は「ニッポン放送が台場に移転[注釈 1]していなければ今でも『笑顔でこんにちは!』が続いていて、玉置がこんなに早く亡くなることはなかっただろう」と回想し、その死を惜しんだ。
([7][8][9])
9時00分 - 10時00分
10時00分 - 11時00分
11時00分 - 12時00分
11時00分~12時00分
11時00分 - 11時30分
※1991年10月以降詳細不明
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