恭嬪金氏(きょうひん きんし、コンビン キムシ、공빈 김씨、1553年 - 1577年5月1日)は李氏朝鮮第14代国王宣祖の後宮で第15代国王光海君、および宣祖の庶長子臨海君の実母。本貫は金海金氏。文臣で贈領敦寧府事、海寧府院君金希哲(きん きてつ、キム・ヒチョル、김희철、1519年 - 1592年)の娘。
光海君の即位に伴い慈淑端仁恭聖王后(じゃしゅくたんじん きょうせいおうこう、チャスクタニン コンソンワンフ、자숙단인공성왕후)の諡号を追贈され墓所も成陵(せいりょう、ソンヌン、성릉)の陵号が与えられた[1]が廃位後に全ての号を廃され本来の地位へと戻った。
生涯
金希哲と正室安東権氏の間に誕生し長じて宮中に入った。淑儀の地位にあった1572年に長子珒を出産し嬪に封じられ[2]、3年後の1575年には次子琿を出産したがその後病に倒れ、2年後の1577年に薨去した[3]。
恭嬪金氏は夫宣祖に寵愛されており、彼女が健在であった頃他の後宮は皆遠慮して寵を競おうとはしなかった。しかし病が重くなった頃宣祖に「自らの病は何者かによる呪詛によるものなのに主上(宣祖)がこれを調査し明らかにしなかったから自分が死んだとしたら主上がそうさせたことになるが、恨んだり憎んだりはしない」と訴えた。宣祖はこれを聞いて酷く悲しんだが彼女の死後後宮のひとり昭容金氏(後の仁嬪金氏)が恭嬪金氏の言葉は誤りである事を丁寧に説明した。以後昭容金氏は恭嬪金氏以上に宣祖から寵愛されるようになったという[3]。
死後
次子李琿が即位した事に伴い1610(光海君2)年3月に慈淑端仁恭聖王后と追贈され殿には「奉慈」(ほうじ、ポンジャ、봉자)陵には「成陵」の号が与えられた[1]。1613年にはこの事について明に使者を送り承認を求めている[4]。1616(光海君8)年には「敬烈明順」(けいれつめいじゅん、キョンニョルミョンスン、경렬명순)の尊号が加わり諡号も敬烈明順慈淑端仁恭聖王后となった[5]。しかし1623年に仁祖反正が起こり光海君が廃位された事に伴い、彼女にまつわる全ての号が廃止された。
恭嬪金氏の墓所も陵号を失い成墓(せいぼ、ソンミョ、성묘)と改名したが外観は王室陵同様のつくりとなっており、文化財庁により大韓民国指定史跡第365号に指定されている[6]。
家系
- 父: 金希哲
- 母: 安東権氏
- 弟: 金礼直(朝鮮語版)(1565年 - 1623年)
- 弟: 金義直(生没年不詳)
- 夫: 宣祖
- 臨海君 李珒(1572年 - 1609年)
- 光海君 李琿(1575年 - 1641年)
恭嬪金氏が登場する作品
脚注
- ^ a b 「乙巳追尊私親恭嬪金氏爲慈淑端仁恭聖王后. 殿曰「奉慈」, 陵曰「成陵」」朝鮮王朝実録 光海君日記(中草本)26巻、光海2年3月29日乙巳1回目
- ^ 「納王子臨海君 珒 【金嬪之所出也. 嬪乃金希哲之女有寵. 以淑儀封嬪, 臨海君卽王子之長也.】 幣于許銘 【立身之初, 志操無稱, 主婚之日, 營求太煩.】 女.」朝鮮王朝実録 宣祖実録19巻、宣祖18年4月17日戊午5回目
- ^ a b 「恭嬪 金氏卒. 嬪是司圃金希哲女. 生臨海, 光海二王子. 至是以産病卒. 金氏素有寵, 後宮無敢間幸. 及其病革, 訴于上曰. 宮中有仇我者, 取吾履隻, 詛呪病我, 而自上不覈發. 今日之死, 是上使然, 死不敢怨惡也. 上哀悼殊甚, 遇宮人多暴急. 昭容金氏 【後爲仁嬪】 曲爲調護, 頗揚嬪宿愆, 上不復哀念曰. 渠負予多矣. 自是, 金昭容特承寵遇而專房, 非前比矣.」朝鮮王朝実録 宣祖修正実録11巻、宣祖10年5月1日戊子3回目
- ^ 「恭聖王后 策封奏請使朴弘耉, 李志完發行. 王旣追崇恭聖, 欲祔太廟, 問于鄭仁弘, 仁弘言 須奏天朝, 受天朝 策命, 然後方可議祔廟之事」」朝鮮王朝実録 光海君日記(中草本)73巻、光海5年12月11日甲午8回目
- ^ 「今番則依宣宗大王玉寶所刻, 以 敬烈明順慈淑端仁恭聖王后 寶書之, 而題主亦依次第書之, 似爲宜當.」朝鮮王朝実録 光海君日記(中草本)106巻、光海8年8月19日丁巳5回目
- ^ 윤홍로 성묘(成墓) (朝鮮語) 韓国民族文化大百科事典 2019.2.3 11:55 (UTC) 閲覧
- ^ 이동현、김성의 [불후의명작 ④]‘허준’, 여배우들의 흥미진진한 매력 대결 (朝鮮語) 日刊スポーツ 2009.7.30付記事
- ^ 구암 허준 관련검색어 검색 출연 (朝鮮語) Daum 2019.2.3 10:40 (UTC) 閲覧
- ^ Goddess Of Fire Jeongi | Cast (英語) HANCINEMA 2019.2.3 10:50 (UTC) 閲覧