岡田大池(おかだおおいけ)は、岡山県倉敷市真備町岡田にあるため池である。大池ふるさと公園の中にあり、同公園内の倉敷市真備ふるさと歴史館の北西に位置する。東岸の中央が橋で弁天島とつながっている。
池が造られた年代は不明だが、正徳年間(1711年から1716年)には大池の名称が載っている記録があり[1]、備中国奉行の小堀政一(1579年 - 1647年)が17世紀初頭に建設したと推定されている[2]。
池には亀や鯉・鮒などの魚が泳ぎ回り[1]、冬季は緋鳥鴨や真鴨、星羽白などの鴨が飛来する[3]。岡田藩が支配していた江戸時代から1970年代ごろまで禁猟であった[1]。
第二次世界大戦末期から3年余り、岡田に疎開していた推理作家の横溝正史がよく散歩に訪れており、作品の舞台として描いている(#『空蝉処女』と岡田大池参照)。
大池の弁天様
「大池の弁天様」は弁天島に建てられている祠で、岡田藩が1716年に建立したものである[4]。
祠には辨財天が祀られている。辨財天は、もとは音楽を主宰する仏であったが、福智の増益、延寿・財宝の獲得、天災地変の滅除、戦勝を司る女神・吉祥天と混同されるようになった[5]。大池の辨財天は左手に如意の宝珠を持っており、福徳授与の姿をしている[5]。
岡田藩は近くに稲荷神社を祀っており、弁天の祠とともに藩の守護を祈ったものである[5]。
交通アクセス
以下は倉敷市真備ふるさと歴史館の交通アクセス(岡田大池は同館の北西に位置しており、以下のアクセスから徒歩ですぐ)。
『空蝉処女』と岡田大池
第二次世界大戦末期から3年余りこの地に疎開していた横溝正史が執筆した『空蝉処女』(うつせみおとめ)に、岡田大池と大池の弁天様、大池の曲がり角にある「濡れ仏」が描かれている[注 1]。濡れ仏の台座に「法界」(ほっかい)と刻まれており、「法界地蔵」であることを示している[注 2]。
『本陣殺人事件』にも、岡田大池を想起させる記述がある[注 3]。
横溝の妻・孝子は、疎開宅のある岡田村字桜部落(現・真備町岡田)の西側に本家分家がどっしりと棟を並べて、村人たちから「大加藤」と呼ばれている加藤家の屋敷の本家が『本陣殺人事件』の舞台のモデル宅であるのに対し、『空蝉処女』は分家の加藤家が発生の地と思う[13]として、次のように述べている。
「ある日、主人が分家の前を歩いていた時、その家より聞こえて来た歌声にひかれて垣間見たのが、令嬢とも夫人ともいうべき田舎には珍しい女性であった」[13]、「その女性の印象に戦争の悲愴さをまじえて、当時の雰囲気の一齣として、短いものを依頼のままに書き送ったものと思う」[13]
周辺施設
脚注
注釈
- ^ 『空蝉処女』に、「そこは私の家から五分あまりの距離で、周囲の水田のなかに、擂鉢をさかさに伏せたように盛りあがった丘があり、その丘の一部に、このへんとしては珍しく大きな池が掘ってあるのだった」、「坂を登りきるとすぐ池がひらけ、とっつきに濡れた仏が立っている。(中略)左を見ると池の中に小さな島が突出していて、その島にまつってある祠が、水のうえにあざやかな影を落していた。」と記述されている[8]。
- ^ 法界は、「 (1) 思考の対象となる万物、(2) 真理のあらわれとしての全世界」を表す仏教用語[9]で、法界地蔵は大宇宙を含むあまねくという広い範囲で一切の願いごとを叶えてくれる格の高い地蔵と解釈されている[10]。ただし、「法界」とは境を知らせるとの意、すなわち道しるべのことで、法界地蔵は道に迷う人のために道を教えると解釈しているものもある[11]。
- ^ 金田一耕助と久保銀造が炭焼小屋を見つけるくだりに、「その水車のへんから路は急に細くなって、崖沿いに東へ急カーヴしていたが、そのカーヴを曲がると、突然ふたりの眼前に、かなり大きな池が現われた」と記述されている[12]。
出典
関連項目
外部リンク