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この項目では、近代の宮内省について説明しています。律令制の宮内省については「宮内省 (律令制)」をご覧ください。 |
宮内省(くないしょう、旧字体:宮內省)とは、近代の日本にあった皇室事務を司る省庁。1869年(明治2年)に古代の宮内省に倣って太政官制のもとで発足した組織で、当初の長官は宮内卿だったが、1885年(明治18年)以降の内閣制度下においては宮中と行政各官庁は区別され、宮内省を所管する宮内大臣は内閣の閣員とはされず独立していた[1]。GHQ占領下の1946年(昭和21年)に縮小再編され、1947年(昭和22年)に宮内府、1949年(昭和24年)に現在の宮内庁となった[2][3]。
沿革
宮内省の前身は、1869年5月19日(旧暦明治2年4月8日)に設置された内弁事で、5月25日(旧暦4月14日)に内廷知事に改称された[4]。さらに8月15日(旧暦7月8日)の職員令で宮内省となり、本部のほか、皇太后宮職、皇后宮職、東宮坊の部署が設置された[4]。この際に改正された「官位相当表」よると、宮内卿は正三位、宮内大輔は従三位、宮内少輔は正四位とされた。
一方、1872年4月(旧暦明治5年3月)の神祇省廃止により祭事祀典が太政官直属の式部寮に移管されたが、新暦1875年(明治8年)4月に式部寮は太政官から宮内省に移管された(太政官布告第59号)[4]。その後、事由は不明ながら、同年12月に正院に戻され(太政官布告第182号)、1877年(明治10年)9月には再び式部寮は宮内省所管となった(太政官達第63号)[4]。
なお、1877年(明治10年)8月29日から1879年(明治12年)10月13日までの間、侍補が置かれていた。
歴代の宮内卿
- 万里小路博房:1869年7月8日(旧暦明治2年5月29日) - 1871年6月25日(旧暦明治4年5月8日)
- 徳大寺実則:1871年11月29日(旧暦明治4年10月17日) - 1884年(明治17年)3月21日
- 伊藤博文:1884年(明治17年)3月21日 - 1885年(明治18年)12月22日
歴代の宮内大輔
- 烏丸光徳:1869年10月14日(旧暦明治2年9月10日) - 1871年8月11日(旧暦明治4年6月25日)
- 万里小路博房:1871年8月13日(旧暦明治4年6月27日) - 1877年(明治10年)8月29日
- 杉孫七郎:1877年(明治10年)12月26日 - 1884年(明治17年)4月21日
- 吉井友実:1884年(明治17年)7月8日 - 1886年(明治19年)2月5日
内閣制度と宮内省
1885年(明治18年)12月22日に出された太政官達第69号は、内閣制度を創設する布告だったが、1.太政大臣、左右大臣、参議及び各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くこととしつつ、2.宮内大臣を除く内閣総理大臣及び各大臣をもって内閣を組織することとされた[3]。宮内大臣は国家の官吏として掲げられたが、宮内大臣は内閣からは除外され、宮内省は内閣から外れて国務には関わらない官庁に位置づけられた[4]。
同日をもって宮中に内大臣及び宮中顧問官が設置され、宮内大臣の設置により宮内卿は廃止された[5]。宮内大臣には最後の宮内卿の伊藤博文が就き初代総理大臣と兼職した。
1886年(明治19年)2月4日に定められた宮内省官制(宮内省達)では、侍従職、式部職、皇太后宮職、皇后宮職、大膳職、内蔵寮、主殿寮、図書寮、内匠寮、主馬寮、諸陵寮などが設置された[5]。
1889年(明治22年)2月、大日本帝国憲法発布とともに皇室典範が制定されると、同年7月に宮内省官制は改定された[5]。国務官と宮内官は区別され、宮内大臣は憲法に責任を負わず天皇に直接責任を持つ大臣として位置づけられた[4]。宮内省令は天皇親裁の場合もあれば宮内大臣のほか臣僚(国務大臣、地方長官、郡長、島司)に権限が付与され発されることもあった[4]。宮中諸官の官制の詔勅(宮内省官制、内大臣官制、宮中顧問官制等)は、国務大臣の奏請をまって裁可されるものではないが、広く周知義務を負わせるため国務大臣の副署が行われた[4]。
その後、皇室自律の原則に従って独立官庁として次第に拡充。1908年(明治41年)1月には新たに皇室令として宮内省官制が施行された[5]。
天皇および皇族、朝鮮王公族(元・大韓帝国皇帝の李王家)の日常生活、教育、財産管理などあらゆる側面を支える官庁へと拡大していたが、戦後、連合国軍占領下で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の要求により縮小された。これにともない大部分の業務は他部局に移管された。たとえば皇室財産の大部分を占めた御料林は国有林となり林野庁の管轄となり、あるいは宮内省管轄であった学習院は私立学校となった。
1947年(昭和22年)、日本国憲法の施行とともに内閣総理大臣所管の機関として宮内府に改められ、第二次世界大戦終戦時に6,200人余りいた職員は1,500人弱に削減された[6]。さらに宮内府は1949年(昭和24年)に総理府の設置にともなってその管轄下の外局となり、宮内庁に改められた。以降の歴史については宮内庁を参照。
歴代の宮内大臣
歴代の大臣
代
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氏名
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就任日
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兼任
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1
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伊藤博文
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1885年(明治18年)12月22日
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首相兼任
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2
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土方久元
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1887年(明治20年)9月16日
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3
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田中光顕
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1898年(明治31年)2月9日
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4
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岩倉具定
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1909年(明治42年)6月16日
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5
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渡辺千秋
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1910年(明治43年)4月1日
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6
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波多野敬直
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1914年(大正3年)4月9日
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7
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中村雄次郎
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1920年(大正9年)6月18日
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8
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牧野伸顕
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1921年(大正10年)2月19日
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9
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一木喜徳郎
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1925年(大正14年)3月30日
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10
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湯浅倉平
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1933年(昭和8年)2月14日
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11
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松平恒雄
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1936年(昭和11年)3月6日
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12
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石渡荘太郎
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1945年(昭和20年)6月4日
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13
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松平慶民
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1946年(昭和21年)1月16日
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- 宮内大臣(親任官)
- 宮内次官(勅任官)
内部部局
1908年(明治41年)1月1日に施行された皇室令による宮内省官制では、大臣官房、侍従職、式部職、内蔵寮、図書寮、爵位寮、侍医寮、大膳寮、諸陵寮、主殿寮、内匠寮、内苑寮、主馬寮、主猟寮、調度寮が設置された[5]。
内部部局としては、通常の官衙とは異なり、「職・寮」といった律令制度下の部局名を承継したものが用いられた。長の名称は各部局により異なり、侍従職は「侍従長」、式部職は「式部長官」、宗秩寮は「総裁」、総務局・警衛局は「局長」、その他の寮は「○○頭」( - のかみ)であった。
終戦当時の内部部局は以下の通り[6]。
外局
内部組織の変遷
- 1883年(明治16年)9月に京都に支庁が設置された[7]。
- 1884年(明治17年)4月に学習院を宮内省所轄の官立学校とした。
- 1886年(明治19年)2月に京都支庁が廃され、主殿寮京都出張所が設置された。
- 1900年(明治33年)6月に帝国京都博物館を京都帝室博物館と改称した。1924年(大正13年)2月に京都帝室博物館を京都市に下賜した(現在の京都国立博物館)。
- 1886年(明治19年)に「博物館」が農商務省から宮内省図書寮に移管され、後に帝国博物館、東京帝室博物館と改称され、1947年(昭和22年)5月に文部省に移管された(現在の東京国立博物館)。
- 1908年(明治41年)1月に支庁が廃され、諸陵寮出張所と主殿寮出張所が京都に設置された[8]。
- 1914年(大正3年)7月に諸陵寮出張所が廃止された[9]。
- 1921年(大正10年)10月に主殿寮出張所が廃され、内匠寮出張所が京都に設置された[10]。
- 1936年(昭和11年)11月に内匠寮出張所が廃され、京都地方事務所が設置された[11]。
参考文献
脚注
関連項目
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、宮内省に関するカテゴリがあります。
- ウィクショナリーには、宮内省の項目があります。