天ヶ須賀(あまがすか)は三重県四日市市北部の富洲原地区の3地区(富田一色地区・天ヶ須賀地区・松原地区)の1つ。江戸時代に朝明郡所属の富田六郷の天ヶ須賀村であった半農半漁の村落だった地域で、三重郡富洲原町時代は大字天ヶ須賀地区だった。四日市市の住所制度の名称では天ヵ須賀地区である。
山口誓子のゆかりの地でもある。煎子(いろこ)産業と呼ばれるあられ菓子のおこしの原料を飴で固めたものが地場産業として盛んである。
江戸時代の天ヶ須賀の土地の名称は須賀の土地であった事から須賀村と呼ばれていた。桑名藩領であった天ヶ須賀地区は富田六郷(東富田村・西富田村・富田一色村・松原村・天州と呼ばれた須賀村・蒔田村)の1つの村落であった。天ヶ須賀地区は東富田村の枝郷であり、漁業・廻船業が盛んであった。天ヶ須賀は漁船と五十集船(回船)が多くて、天ヶ須賀村には44艙の船があり、漁業や回船業が盛んであった。江戸時代の天ヶ須賀村は漁戸が多い漁村であり、富田一色村と共に小蝦を捕獲して干物にして販売していた村であった。四日市市大矢知地区の蒔田町の長明寺の過去帳には、天和年間(1681年〜1684年)に天ヶ須賀の村民の人名が登場して、『天ヶ須賀は江戸時代の初め頃から人が住み始め集落ができた』とする古文書の記述がある。人家が急増して江戸時代の中ごろには、船仲間が大阪から住吉大明神をもらいうけ、村の伝統である弁天さんに合わせて祀った。村内の地名として、江戸(現在の東京都)の町名をまねて、江戸町と命名して、それ以外では岩戸町(旧家の天野氏のルーツである三河国の中山庄の岩戸が由来である)や常盤町(旧家天野氏の分家が住んでいた常陸国の磐城が由来である)と命名した。
言い伝えとして、400年ほど前に西富田村から天ヶ須賀村へ移り住んだ一族があったといわれている。天ヶ須賀地区の旧家である武士身分(士農工商の侍階級だった)の天野氏の家系図によると、江戸時代の初めの1651年(慶安4年)に、大矢知地区から移り住んだとも記されている。[1]
江戸時代には「鉄砲医者」と呼ばれて田代随意がいて、昔話として四日市市立富洲原小学校付近の茶の水川河口の富田一色地区の甚五兵衛町にあったのが天ヶ池であり、天ヶ須賀村のしまとこまの2人の若い女性を生贄にした郷土史の昔話がある。
明治時代、近代化教育のさきがけとして、天ヶ須賀学校の前身となる寺子屋が、そろばん屋があった本町の敷地に野村良意によって開かれた。息子の野村碩胤によって、野村医院が開設されて、天ヶ須賀の地域医療に貢献した。1878年(明治11年)天ヶ須賀の南部に天ヶ須賀大火があった。
1889年(明治22年)天ヶ須賀村から朝明郡富洲原村大字天ヶ須賀になる。明治時代後期からは水産加工業と蛤の採取が盛んになる。大正時代に平田佐次郎が創業した平田紡績によって魚網生産が始まり製網業の町となる。平田佐矩によって紡績工場が併設・巨大工場が設置された。あられなどの菓子原料になる煎粉の生産など、地場産業が発展した。酒造りが行われて、天一・賞美・舞姫などの商標の酒が製造された。天ぷら店があり、水産物の生産や加工業も盛んで鰯の加工(田作りやこうなご)の生産が多かった。[2]
1923年(大正12年)富洲原村に町制が実施され朝明郡富洲原町大字天ヶ須賀となり、須賀浦海水浴場が名古屋市方面や三重県内で有名となり、1929年(昭和4年)の伊勢電鉄の開通で富洲原駅が開業して天ヶ須賀地区への観光客も増加した。昭和20年代に住吉運河周辺にアメリカ占領軍の散歩姿が見られた。しかし名四国道の開通に伴い、須賀浦海岸は埋め立てられ、国道23号線に沿って長い堤防が築かれた。天カ須賀の「須賀」にあらわされる、引き潮のときに現れる海辺の洲は見られなくなった。[3][4]
戦後には宗村佐信によって暁学園が設立された。平田紡績の跡地には富洲園団地など住宅地が造成された。平田紡績の富洲原漁網工場・四日市紡績工場と暁学園は本町自治会の一部であったが、現在は新興住宅団地として不動産開発がされて、富洲園自治会・GS富洲原自治会・LM富洲原マンション自治会が新設された。伊勢湾台風や伊勢湾沿いの地盤沈下のため防潮堤が築かれた。海岸沿いの天ヶ須賀の様子が変化し、埋立地に天ヶ須賀新町工業団地が造成された。
隣の三重郡川越町の高松地区(旧高松村)とは明治時代に天ヶ須賀村(北部地域)北町と島崎町の田地を巡っての土地争いがあり、高松村民を小作人として使用した際に、田地の返還問題と農業用水の所有問題があり、伊勢電鉄川越駅が廃止された川越町の豊田地区(旧豊田村)とも川越富洲原駅となった駅名改称問題があり、豊田地区の出身者が戦後の1945年(昭和20年)に川越町に移転した富洲原駅を1983年(昭和58年)から「川越町駅」に改称するように川越町議会に求めた名称問題があった。
平田紡績の創業者である初代平田佐次郎の力で製網関係や漁業などの経済関係が強かった富田一色村と町村合併をして三重郡「富洲原村」となった。富洲原の名の由来は、富田一色から→富(トミ)+天ヶ須賀から→須・洲(ス)+松原から→原(ハラ)富+須+原=富須原から→富+洲+原=富洲原(トミスハラ)である。
富洲原地区は、富田一色地区は純漁村。天ヵ須賀地区は半農半漁。松原村は純農村であった。[10]富田一色地区は漁村であり、同じ漁村である東富田村の富田浜地域とは兄弟関係であり、富田一色は富田六郷の富田(東富田村・西富田村)から独立した分家や支店であったので、富田地区との間で兄弟喧嘩や友好関係や親子関係がある。富田一色を起点とする八風街道が開通した事、富田一色から東富田間の塩役運河が整備された事、伊勢湾から日本各地に行く海運業が発達した事、水産業の発達で江戸時代から明治時代の期間内に富田一色の人口が急増して、富田一色は富洲原村を形成して天ヶ須賀や松原を指導する立場となった。富田から独立するために富洲原地区の3地区中の割合で人口の過半数がいる富洲原地区の政治と経済の中心地区であった富田一色地区がおまけとして天ヶ須賀村と松原村を吸収合併した。
天ヶ須賀地区は江戸時代から半農半漁の村で富田一色地区とは平田佐次郎が操業した平田紡績(製網産業)や繊維産業や水産業など塩役運河の河口の富洲原港沿いの位置で経済関係が強い。川越町の高松村・豊田村とは農地や農業用水を巡る争いから天ヶ須賀村は富田一色村の政治的な支援が必要であったので川越村ではなくて富田一色との町村合併を選択した。
松原地区は奈良時代の聖武天皇社由来の旧家の田村家など富洲原地区では最古の村であり、富田一色と天ヶ須賀は古代期から中世期の時代の古文書の記述では伊勢湾の海岸の浜洲であり村落が形成されていなかったが、富田一色村と天ヶ須賀村は明治時代の初期に學校が創設されるまで発達して、松原地区には独自の学校がなくて明治時代までは人口が少ない農地が広がる農村であった。富田一色から松原地区へ流入した富田一色の分家など富田一色系の移住者の急増と富州原町や平町の都市化の進行で東洋町・西元町・緑町・宮町・平町が創設されて新規住民が流入して人口が急増して、日本近代史のみでは富洲原で一番新しい歴史がない地区である。富田一色から移住した分家が多くて、近鉄富田駅を利用する富田文化圏は富田一色・松原連合であり、川越富洲原駅を利用する天ヶ須賀地区は天ヶ須賀独立圏であり、天ヶ須賀だけ仲間外れの独立した村であった。
富田一色出身の伊藤平治郎が松原地区に東洋紡績(東洋紡績富田工場)を誘致して、富田一色本町の平田家が天ヶ須賀本町に平田紡績を建設して天ヶ須賀と松原は繊維産業が発達した共通点と松原地区には東洋町商店街と西元町商店街があり、天ヶ須賀地区は住吉町風俗街と富田一色出身者が川越町豊田地区に天神町商店街を開発した共通点がある。天ヶ須賀は経済関係が強い富田一色地区の指導は受けるが、松原地区の天ヶ須賀に対する指導は嫌がり、戦後に富田一色地区の人口が減少して富田一色が少数となり、松原地区と天ヶ須賀のみのアンバランスとなった富洲原は松原地区と天ヶ須賀地区はあくまでも間接的な友好関係であり富洲原地区のまとまりが悪くなった。また富洲原地区は四日市市西部への移住者が多くて、四日市岡田家の富洲原へのスーパー進出や政治的な問題や四日市ぜんそくの公害問題など経済問題で四日市市南部の塩浜地区・中部地区・日永地区などとも対立関係である。
住吉町(すみよしちょう[16])の2011年(平成23年)の四日市市が集計した人口統計では世帯数が169軒。総数が405人。男性が204人。女性 が201人である。
天ヶ須賀には、善太や弥六などの人名が付けられた小字名の地名がある。善太新田は現在の住吉町地域で、江戸時代の天ヶ須賀の庄屋の坂太郎左衛門と善兵の2人が、葦原を新田として開発した土地である。江戸時代の天ヶ須賀村では、太郎左衛門善平新田と呼称されていたが、その後近代になり、善と太をとって善太新田と命名された。善太新田は明治時代になり、早川半三郎の所有地となった。1926年(大正15年)から1928年(昭和3年)にかけて、富田一色港(富洲原港)の改修工事が行われて。それまで富田一色港は、運河の形状が曲折して船舶の入港が不便であった事と、年々水深が浅くなっていく事で、地元では富田一色港の大改修が要望された。地元負担の事業として、工事は運河の幅を一定にして、左右の岸壁を直線にするため、天ヶ須賀大字善太の池(ボラ池)を浚渫してその土砂で富田一色地区の北縁部を埋め立てた。富田一色の北縁部が拡張されて新しく富田一色旭町が造成された、同時に天ヶ須賀字善太のボラ池は運河となり、運河がそれまでの位置から、さらに北に移動して、運河の改修で善太新田の南側の細長いボラ池はなくなり、堤防に囲まれた善太新田を埋め立てた。昭和初期に内田忠明を代表とする朝明土地組合が土地の地主である早川半三郎から買収して、朝明川と須賀浦海水浴場の土砂をトロッコで運搬して埋め立てて現在の天ヶ須賀住吉町自治会の土地を造成した。[18]
富田一色地区の芸者の置屋、料理屋、遊廓は富洲原の人口が密集する住宅地にあったが、風紀上男女が売春をする施設が公序良浴に反すると問題となり、三重郡富洲原町の発展のために富田一色地区・松原地区東洋町商店街・川越村の天神町商店街に分布していた風俗営業を富洲原の住宅地から外れた住吉町1ケ所に風俗施設を集結した。戦後の富田警察署長(現在の四日市北警察署)がまとめ、1928年(昭和3年)頃埋め立てが完了して、最初に入店した10数軒の開業と同時に、花火を打ち上げて、住吉新地の誕生を盛大に祝った。1929年(昭和4年)〜1931年(昭和6年)の期間の埋め立て工事により誕生したのが住吉町で富洲原港の運河に三方を囲まれた特異な地形となっている。
江戸時代後期に朝明郡富田六郷の天ヶ須賀村の村民・農民と漁民の人々が天ヶ須賀南部の港町・南町・本町の天ガ須賀第1組周辺を開拓してできた太郎左衛門善平(人名が由来)の新田があった地域が住吉町である。住吉町の村高は47石8斗4升4合余であった(旧高旧領取調帳による)。住吉町は1928年(昭和3年)江戸時代からあった善太新田を三重郡富洲原町が埋立ててできた町であり、天ヶ須賀地区の新町として設定されたのは1929年(昭和4年)である。住吉町の地名は天ヶ須賀地区の氏神天ヶ須賀住吉神社が由来である。町の政治家であった伊藤平治郎や生川平三郎などによって富洲原港の改修工事が行われた。入り江脇の水田を埋め立てて遊興街を作った。1930年(昭和5年)頃から公娼制度によって売春街・風俗街・歓楽街・花街として賑わい、置屋が20軒ほど開業していたが、1958年(昭和33年)公娼制度の廃止で花街が廃業の後、閑静な住宅地となった。
平田耕一衆議院議員の邸宅がある。
天ヵ須賀一丁目の2011年(平成23年)の四日市市が集計した人口統計では世帯数が196軒。総数が444人。男性が234人。女性 が210人である。
四日市市の住所制度で港町自治会・南町自治会・本町自治会の南側にあたる。国道23号線沿いの天ヵ須賀新町と境界でここ須賀浦海水浴場だった区域は天ヶ須賀海浜緑地となっている。令和5年7月15日まで昭和戦後期の天ぷら店が存在した。
天ヵ須賀二丁目の2011年(平成23年)の四日市市が集計した人口統計では世帯数が469軒。総数が1121人。男性が554人。女性 が567人である。
本町自治会の北側・寺町自治会・中町自治会・江戸町自治会・岩戸町自治会・常盤町自治会・北町自治会の南側・島崎町自治会の東部にあたる。小澤博英が執筆した郷土史考では「岩戸町」は天ヶ須賀地区の旧家である天野氏(中山岩戸の天野氏)のルーツの三河国中山庄岩戸に由来する町である。須賀地蔵の仏教寺院の明願寺に令和5年12月に火災があった。天野氏が住む須賀の天野が須賀が訛って天ヶ須賀の地名が発生して天野氏の屋敷町と懐かしい故郷を偲んで「岩戸町」と命名した。[22]古事記や日本書紀の「天の岩戸」の神話に登場する天野岩戸が由来とする説もある。[23]「常盤町」は旧家の天野氏の出身地が江戸時代の初期に常陸国に采地を賜り関東に移住してその分家が伊勢国朝明郡富田六郷の天ヶ須賀村の縁者を頼って祖先のルーツの関東の常陸国の磐城が由来で「常盤町」と命名された。[24]国道23号線沿いの天ヵ須賀新町と境界でここ須賀浦海水浴場だった区域は天ヶ須賀海浜緑地となっている。近くには天ヶ須賀公園もあり災害時の避難場所に指定されている。
天ヵ須賀三丁目の2011年(平成23年)の四日市市が集計した人口統計では世帯数が112軒。総数が252人。男性が132人。女性 が120人である。北町自治会の住吉神社付近の北東部にあたる。昔町内の大部分を占めていた田んぼなどの農地がわずかに残っている。
天ヵ須賀四丁目の2011年(平成23年)の四日市市が集計した人口統計では世帯数が239軒。総数が606人。男性が315人。女性 が291人である。 北町の北西部と島崎町北部にあたる。昔町内の大部分を占めていた田んぼなどの農地がわずかに残っている。
天ヵ須賀五丁目の2011年(平成23年)の四日市市が集計した人口統計では世帯数が578軒。総数が1678人。男性が824人。女性 が854人である。四日市市立富洲原中学校付近の島崎町自治会の南部と暁学園の跡地で寺町自治会の一部なった住宅団地と、平田紡績の四日市漁網工場と四日市紡績工場があった住吉町付近の平田紡績第2工場(富洲園自治会)と地産マンションが計画された平田紡績本社工場の跡地(GS富洲原自治会・LM富洲原マンション)にあたる。
暁学園暁幼稚園の敷地がある。隣接する暁小学校・暁中学校・高等学校・暁短大の跡地は、寺町自治会の一部で住宅団地となり、地産グループによって、天ヶ須賀本町自治会の一部区域はヒラボウマンションやパン店のモンタボーや個人が土地を貸していた四日市北警察署富洲原交番が立地していた。平田紡績と暁学園は天ヶ須賀本町の一部であり、平田家の所有地であった。天ヵ須賀2丁目との境界に当たる区域は天ヶ須賀本町の運河から暁学園と富洲原中学校付近まで泳げる運河となっていたが、埋め立てられて道路が拡張されて三重県道401号桑名四日市線となった。広大な跡地の用地はヒラボウによって開発がされた区域で、富洲園自治会・GS富洲原自治会・LM富洲原マンション自治会などの自治会を組織して団地(新興住宅地)を構成している。
四日市市の富洲原地区市民センターは、四日市市の方針で、住所では富州原町(大部分が松原地区所属で甚五兵衛町は富田一色地区所属)であるが、天ヶ須賀地区の富洲園自治会の一部である。
富洲園(富州園)団地自治会は平田紡績の不動産開発事業の富洲園団地構想で開発された紡績工場跡地の団地である。昭和50年代に団塊の世代が多く住むようになった都市団地である。1970年代(昭和52年頃)に天ヶ須賀地区の善太漁網工場用地を売却して三重県住宅供給公社によって開発造成された。昭和54年度に住宅地の引き渡しがあり、昭和55年度に富洲園自治会が発足した。入居者の区分は天ヶ須賀地区及び富田一色地区周辺の富洲原地区内からの住民が33%、四日市市内及び川越町からの住民が33%、その他三重県内と県外からの住民が34%であった。
天ヵ須賀新町(あまがすかしんまち[25])の2011年(平成23年)の四日市市が集計した人口統計では世帯数が4軒。総数が4人。男性が4人。女性 が0人である。 天ヵ須賀新町自治会は存在せず自治会制度の不在地域である。
ここは須賀浦(須賀浦海水浴場)を埋め立てた土地である。天ヵ須賀1丁目と天ヵ須賀2丁目の東側であり、国道23号より四日市港側の地域であり、天ヶ須賀新町緑地がある。天ヵ須賀工業団地の敷地である。運輸企業・流通企業・金属企業による工業団地であり、以下の企業が立地する。
工業用地として新設された工業地帯で企業のみで構成されて、住民や自治会制度はない。須賀浦海水浴場を埋め立てた国道23号の四日市港沿いの伊勢湾に立地する。新しい町として天ヵ須賀新町と命名された。富洲原地区運動広場は、富洲原小学校のマラソン大会と富洲原中学校のマラソン大会と富洲原地区のマラソン大会のコースとして使用される。
相生町 | 曙 | 曙町 | 朝日町 | 稲葉町 | 鵜の森 | 沖の島町 | 尾上町 | 北条町 | 北納屋町 | 北浜田町 | 北浜町 | 北町 | 九の城町 | 蔵町 | 幸町 | 栄町 | 三栄町 | 昌栄町 | 新正 | 諏訪栄町 | 新々町 | 新町 | 十七軒町 | 末広町 | 諏訪町 | 高砂町 | 千歳町 | 中部 | 中納屋町 | 中浜田町 | 中町 | 西浦 | 西新地 | 西末広町 | 西浜田町 | 西町 | 八幡町 | 浜田町 | 浜町 | 堀木 | 本町 | 南起町 | 南納屋町 | 南浜田町 | 元新町 | 元町 | 安島
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大宮町 | 大宮西町 | 霞 | 金場町 | 白須賀 | 城山町 | 八田 | 羽津 | 羽津町 | 羽津中 | 羽津山町 | 富士町 | 別名 | 緑丘町 | 南いかるが町 | 山手町
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あかつき台 | 伊坂台 | 伊坂町 | 萱生町 | 黄金町 | 千代田町 | 中村町 | 広永町 | 平津新町 | 平津町 | 山分町 | 山村町
あさけが丘 | 朝明町 | 大鐘町 | 北山町 | 札場町 | 西大鐘町 | 八千代台 | 山城町
大矢知新町 | 大矢知町 | 川北 | 下さざらい町 | 下之宮町 | 十志町 | 垂坂新町 | 垂坂町 | 西富田 | 西富田町 | 東垂坂町 | 蒔田 | 松寺 | 南垂坂町
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水沢町 | 水沢野田町
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阿倉川新町 | 阿倉川町 | 清水町 | 末永 | 末永町 | 西阿倉川 | 野田 | 万古町 | 東阿倉川 | 本郷町 | 三ツ谷町 | 三ツ谷東町 | みゆきケ丘
午起 | 川原町 | 京町 | 新浜町 | 高浜新町 | 高浜町 | 滝川町 | 陶栄町 | 東新町 | 浜一色町
楠町小倉 | 楠町北一色 | 楠町北五味塚 | 楠町本郷 | 楠町南川 | 楠町南五味塚 | 楠町吉崎
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