分解型複素数 (ぶんかいがたふくそすう、英語 : split-complex number ; 分裂複素数)とは、数学 において、2つの実数 x , y と j 2 = +1 を満たす実数でない量を用いて z = x + yj と表せる数 のことである。
分解型複素数と通常の複素数 の最も大きな幾何学的な違いは、通常の複素数の乗法が ℝ 2 における通常の自乗ユークリッドノルム x 2 + y 2 に従う一方、分解型複素数の乗法が自乗ミンコフスキーノルム x 2 − y 2 に従うことである。
代数的には、分解型複素数は(通常の複素数には無い)非自明な(つまり、0 でも 1 でもない)冪等元 を含むという興味深い性質を持つ。また、全ての分解型複素数が成す集合は体 にはならないが、その代わりに環 を成す。
分解型複素数には他の呼び名がたくさんある(#別称 を参照)。「分解型」(split) というのは、(p , p ) -型の(計量二次形式の)符号数 が「分解型符号数」(split signature) と呼ばれることからきている。つまり、分解型複素数は分解型符号数 (1, 1) を持つ複素数の類似である。
定義
分解型複素数 は z = x + jy なる形をしている。ここで x , y は実数 で、量 j は j 2 = +1 を満たす、実数(つまり ±1 )でない量(「虚数単位」)である。
通常の複素数 と異なるのは、虚数単位が i 2 = −1 でなく j 2 = +1 であることである。
分解型複素数 z 全体からなる集合は分解型複素平面 (split-complex plane ) と呼ばれる。分解型複素数の加法 と乗法 は
(x + jy ) + (u + jv ) = (x + u ) + j (y + v ) ,
(x + jy )(u + jv ) = (xu + yv ) + j (xv + yu )
で定義される。この乗法は可換 結合的 であり、加法 に対して分配的 である。
共軛、ノルムおよび内積
複素数 における複素共役 と同様に、分解型複素共軛 (split-complex conjugate ) の概念を定義することができる。分解型複素数 z = x + jy に対して、その共軛は
z* ≔ x − jy
で与えられる。この共軛は、複素共役と同様に、
(z + w )* = z* + w*
(z⋅w )* = z*⋅w*
(z* )* = z
などの性質を満たす。この3条件は分解型複素数の環が、分解型複素共軛を対合 (位数 2 の自己同型 )に持つ対合付き環 であることを示している。分解型複素数 z = x + jy の絶対値 (平方ノルム)は二次形式
‖ z ‖ ≔ z⋅z* = z*⋅z = x 2 − y 2
で与えられる。重要な性質として、絶対値は
‖ z⋅w ‖ = ‖ z ‖⋅‖ w ‖
が成立するという意味で分解型複素数の乗法と両立する 。ただし、この二次形式は正定値 ではなく符号数 (1, 1) を持つ不定値二次形式であるので、この絶対値は平方根をとるわけにはいかないし取れたとしても(解析学的な意味での)ノルム にはならない。分解型複素数に付随する (1, 1) -型双曲的(不定値)内積 が
⟨ z , w ⟩ ≔ ℜe (z⋅w* ) = ℜe (z*⋅w ) = xu − yv
によって与えられる。ただし、z = x + jy , w = u + jv である。これを用いると、絶対値の別の表示として
‖ z ‖ = ⟨ z , z ⟩
と書くことができる。分解型複素数が可逆であることとその絶対値が非零であることとは同値 であり、そのとき逆元 は
z −1 ≔ z* ⁄‖ z ‖
で与えられる。可逆でない分解型複素数はヌル元 (null element ) と呼ばれ、ヌル元の全体は適当な実数 a をとって a ± ja の形に書ける元の全体と一致する。
対角基底
分解型複素数には非自明な冪等元 が2つ存在して、それは e ≔ (1 − j )/2, e* = (1 + j )/2 で与えられる[注釈 1] 。これらはともに
‖ ‖ -->
e
‖ ‖ -->
=
‖ ‖ -->
e
∗ ∗ -->
‖ ‖ -->
=
e
∗ ∗ -->
e
=
0
{\displaystyle \lVert e\rVert =\lVert e^{*}\rVert =e^{*}e=0}
ゆえ、ヌル元である。分解型複素平面におけるもう一つの基底として {e , e* } をとるとしばしば便利である。この基底は対角基底 あるいはヌル基底 と呼ばれる。分解型複素数 z は対角基底を用いて
z = x + jy = (x − y )e + (x + y )e*
と表せる。実数 a, b の順序対 (a , b ) で分解型複素数 ae + be* を表すとき、分解型複素数の乗法は
(a 1 , b 1 )(a 2 , b 2 ) ≔ (a 1 a 2 , b 1 b 2 )
で与えられる。この基底を用いれば、分解型複素数の全体が環の直和 ℝ ⊕ ℝ [注釈 2] に同型であることがはっきり判る。
対角基底に関して分解型複素共軛は (a , b )* = (b , a ) であり、絶対値は ‖ (a , b ) ‖ = ab を満たす。
分解型複素数の幾何
青:単位直交双曲線 ‖ z ‖ = 1 , 緑:共軛双曲線 ‖ z ‖ = −1 , 赤:漸近線 ‖ z ‖ = 0
ミンコフスキー内積を備えた実二次元線型空間 は (1 + 1) -次元ミンコフスキー空間 と呼ばれ、しばしば ℝ 1,1 と表される。ユークリッド平面 ℝ 2 における幾何学が複素数を用いて記述できるのと同様に、ミンコフスキー平面 ℝ 1,1 における幾何学は分解型複素数を用いて記述できる。
0 でない任意の実数 a に対し、点集合
{
z
:
‖ ‖ -->
z
‖ ‖ -->
=
a
2
}
{\displaystyle \{z:\lVert z\rVert =a^{2}\}}
は双曲線 を成す。この双曲線は左右に (a , 0) を通るものと (−a , 0) を通るものの2つの枝を持つ。a = 1 の場合を単位双曲線 と呼ぶ。各 a に対しその共軛双曲線は
{
z
:
‖ ‖ -->
z
‖ ‖ -->
=
− − -->
a
2
}
{\displaystyle \{z:\lVert z\rVert =-a^{2}\}}
で与えられる。これは上下に (0, a ) を通るものと (0, −a ) を通るものの2つの枝を持つ。この双曲面とその共軛双曲面とは、ヌル元全体の集合
{
z
:
‖ ‖ -->
z
‖ ‖ -->
=
0
}
{\displaystyle \{z:\lVert z\rVert =0\}}
の成す、対角線上にある2つの漸近線 によって隔てられている。しばしばヌル錐 (null cone ) とも呼ばれるこの2本の直線は傾き ±1 を持ち、ℝ 2 において直交 する。
分解型複素数 z , w が ⟨ z, w ⟩ = 0 を満たすとき、双曲的に直交する (英語版 ) という。これは特に通常の複素数の算術として知られている通常の意味での直交性の類似であるけれども、この条件はそれよりは判りにくいものである。これは時空における同時超平面 (simultaneous hyperplane) の概念の根幹を成す。
複素数におけるオイラーの公式 の分解型複素数に該当する類似物として
exp
-->
(
j
θ θ -->
)
=
cosh
-->
(
θ θ -->
)
+
j
sinh
-->
(
θ θ -->
)
{\displaystyle \exp(j\theta )=\cosh(\theta )+j\sinh(\theta )}
が成立する。このことは、双曲線余弦関数 cosh(θ ) の冪級数展開が偶数次の項のみからなり、双曲線正弦関数 sinh(θ ) が奇数次の項のみからなることを用いて導出することができる。任意の実数値を取る双曲角 (英語版 ) θ に対し、分解型複素数 λ ≔ exp(jθ ) はノルムが 1 で単位双曲線の右側の枝上にある。このような数 λ は双曲ベルソル と呼ばれる。
λ は絶対値が 1 であるから、任意の分解型複素数 z への λ を掛ける操作は z の絶対値を保ち、双曲的回転 (狭義ローレンツ変換、縮小写像とも)を表現する(「回転」というのは絶対値 1 の通常の複素数を掛ける操作が ℝ 2 の回転を引き起こすことからの示唆)。λ を掛ける操作は、双曲線をそれ自身に写し、ヌル錐をそれ自身に写すという意味で、幾何学的な構造を保つ。
分解型複素平面上の絶対値を保存する(同じことだが内積を保存する)変換全体の成す集合は不定値直交群 (英語版 ) O (1, 1) と呼ばれる群 を成す。この群は双曲的回転と z ↦ ±z および z ↦ ±z* で与えられる4つの離散的 鏡映変換 の組み合わせからなる(双曲的回転の全体は SO + (1, 1) で表される O (1, 1) の部分群を成す)。
双曲角 θ を双曲回転 exp(jθ ) へ写す指数写像
exp
: : -->
(
R
,
+
)
→ → -->
S
O
+
(
1
,
1
)
{\textstyle \exp \colon (\mathbb {R} ,+)\to {\mathit {SO}}^{+}(1,1)}
は、通常の指数法則を用いれば
e
j
(
θ θ -->
+
ϕ ϕ -->
)
=
e
j
θ θ -->
e
j
ϕ ϕ -->
{\textstyle e^{j(\theta +\phi )}=e^{j\theta }e^{j\phi }}
が成立するから、群同型 である。
代数的性質
抽象代数学 の言葉では、分解型複素数の全体は多項式環 ℝ [x ] の x 2 − 1 が生成するイデアル による商環
R
[
x
]
/
(
x
2
− − -->
1
)
{\displaystyle \mathbb {R} [x]/(x^{2}-1)}
として記述できる。この商における x の像 x mod (x 2 − 1) が「虚数単位」j である。この方法だと、分解型複素数の全体が標数 0 の可換環 を成すことは明らかである。さらに自明な仕方でスカラー倍を定義して、分解型複素数の全体は実 2-次元の可換な多元環 となる。この多元環は可逆元ではないヌル元をもつから斜体 でも可換体 でもない。事実として、非零ヌル元はすべて零因子 である。加法と乗法は平面の通常の位相に関して連続であるから、分解型複素数の全体は位相環 を成す。
分解型複素数の全体は「ノルム」が正定値ではないから、術語を通常の意味に解する限りはノルム代数 を成さない。しかし、定義を拡張して一般の符号数を持つノルムというものを考えれば、その意味での「ノルム代数 」と考えることができる。これは以下の事実
‖ ‖ -->
z
w
‖ ‖ -->
=
‖ ‖ -->
z
‖ ‖ -->
‖ ‖ -->
w
‖ ‖ -->
{\displaystyle \lVert zw\rVert =\lVert z\rVert \lVert w\rVert }
から従う。一般符号数を持つノルム代数の詳細は (Harvey 1990 ) を参照。
定義により、分解型複素数の環は位数 2 の巡回群 C 2 に対する実数体 ℝ 上の群環 ℝ [C 2 ] に同型であることが従う。
分解型複素数全体の環はクリフォード代数 の特別の場合で、正定値二次形式 を備えた一次元ベクトル空間上のクリフォード代数になっている。対して通常の複素数は負定値二次形式を備えた一次元ベクトル空間上のクリフォード代数である[注釈 3] 。この枠組みにおける分解型複素数 はクリフォード代数 Cℓ 1,0 (ℝ ) = Cℓ 0 1,1 (ℝ ) の元のことである。実数 を同様に拡張して複素数 を ℂ ≔ Cℓ 0,1 (ℝ ) = Cℓ 0 2,0 (ℝ ) と定義することができる。
行列表現
分解型複素数は行列 を用いて簡単に表示できる。分解型複素数 z = x + jy は、対応
z
↦ ↦ -->
(
x
y
y
x
)
{\displaystyle z\mapsto {\begin{pmatrix}x&y\\y&x\end{pmatrix}}}
により行列で表示できる。分解型複素数の加法と乗法は行列の加法と乗法によって与えられる。z の絶対値は対応する行列の行列式 の値として得られる。分解型複素共軛は両側から次の行列
C
=
(
1
0
0
− − -->
1
)
{\displaystyle C={\begin{pmatrix}1&0\\0&-1\end{pmatrix}}}
を掛けることに対応する。任意の実数 a に対し、双曲角 a の双曲的回転は行列
(
cosh
-->
a
sinh
-->
a
sinh
-->
a
cosh
-->
a
)
{\displaystyle {\begin{pmatrix}\cosh a&\sinh a\\\sinh a&\cosh a\end{pmatrix}}}
を掛けることに対応する。分解型複素平面の対角基底は、z = x + jy を順序対 (x , y ) で表し、写像
(
u
,
v
)
=
(
x
,
y
)
(
1
1
1
− − -->
1
)
{\displaystyle (u,v)=(x,y){\begin{pmatrix}1&1\\1&-1\end{pmatrix}}}
を作ることによって想起される。すると二次形式は uv = (x + y )(x − y ) = x 2 − y 2 で得られる。さらに
(
cosh
-->
a
,
sinh
-->
a
)
(
1
1
1
− − -->
1
)
=
(
e
a
,
e
− − -->
a
)
{\displaystyle (\cosh a,\sinh a){\begin{pmatrix}1&1\\1&-1\end{pmatrix}}=(e^{a},e^{-a})}
だから、2つのパラメータ付けられた (英語版 ) 双曲線は互いに他方へ写される。ベルソル ebj の作用 は従って線型変換
(
u
,
v
)
↦ ↦ -->
(
r
u
,
v
/
r
)
(
r
=
e
b
)
{\displaystyle (u,v)\mapsto (ru,v/r)\qquad (r=e^{b})}
のもとで縮小写像 に対応する。
この対応は A = B = ℝ 1,1 および C = D = ℝ 2 とし、f を双曲ベルソルの作用、g, h を行列による線型変換、k を縮小写像とするとき可換図式
を満足する。
歴史
分解型複素数の使用は、1848年 にジェームズ・クックル (英語版 ) が双複素数 の概念を発明したときにまで遡れる[1] 。ウィリアム・クリフォード (英語版 ) はスピンの和を表すために分解型複素数を用いている。クリフォードは、分解型複素数を今日分解型双四元数 と呼ばれる四元数代数の係数としての使用法を導入した。彼はその元を "motor" と呼んで分解型複素数の研究で幾度か用いている。
20世紀 に入ると、分解型複素数は双曲的回転によって基準系間の速度変化をよく表していたため、時空平面におけるローレンツ変換 や空間の相対性 を記述するものとして表舞台に現れる。
1935年に J. C. Vignaux, A. Durañona, Vedia らは雑誌 Contribución a las Ciencias Físicas y Matemáticas における4つの論文で分解型複素幾何代数や函数論を展開した。詳細は分解型複素変数函数 (英語版 ) の項を参照。
1941年 E.F. Allen は分解型複素幾何の算術を用いて zz* = 1 に内接する三角形の9点双曲線 (英語版 ) を構成した[3] 。
別称
分解型複素数の名称は著者によってかなりバラつきがある。いくつか挙げれば
分解型複素数やその高次元版(分解型四元数 や分解型八元数 )はシャルル・ミュゼ (英語版 ) が考案したハイパー数 (英語版 ) 計画の部分集合であるため、「ミュゼ数」としてたびたび言及される。
関連項目
分解型複素数の高次元版は、ケーリー=ディクソン構成 を修正することによって得られる。
包絡環と数の目録に関して
注
注釈
^ これらが冪等とは e⋅e = e および e*⋅e* = e* が満たされることであった
^ 加法と乗法は成分ごとのそれで定義する。
^ 注意 :著者によってはクリフォード代数における符号を逆にしているものがあるので、その場合は正定値と負定値を入れ替えて読む必要がある
出典
参考文献
Benz, W. (1973), uber Geometrie der Algebren , Springer
William Kingdon Clifford (1882), Mathematical Works , edited by A.W.Tucker
Cockle, J. (1848), “A New Imaginary in Algebra”, London-Edinburgh-Dublin Philosophical Magazine 33 (3): 345-349
De Boer, R. (1987), “An also known as list for perplex numbers”, American Journal of Physics 55 (4): 296
Fjelstadt, P. (1986), “Extending Special Relativity with Perplex Numbers”, American Journal of Physics 54 : 416
Hucks, J. (1993), “Hyperbolic Complex Structures in Physics”, Journal of Mathematical Physics 34 : 5986
F. Reese Harvey (1990), Spinors and calibrations , San Diego: Academic Press, ISBN 0-12-329650-1 :不定符号数のノルム代数およびローレンツ数に関する記述を含む。
Louis Kauffman (1985), “Transformations in Special Relativity”, International Journal of Theoretical Physics 24 : 223-236
Rosenfeld, B. (1997), Geometry of Lie Groups , Kluwer Academic Publishers , ISBN 0-7923-4390-5
Sobczyk, G. (1995) (PDF), Hyperbolic Number Plane , http://www.garretstar.com/HYP2.PDF
Vignaux, J. (1935), “Sobre el numero complejo hiperbolico y su relacion con la geometria de Borel” (Spanish), Contribucion al Estudio de las Ciencias Fisicas y Matematicas (Universidad Nacional de la Plata , Republica Argentina )
Isaak Yaglom (1968), Complex Numbers in Geometry , translated by E. Primrose from 1963 Russian original, N.Y.: Academic Press
関連文献
出典 は列挙するだけでなく、脚注 などを用いてどの記述の情報源であるかを明記 してください。記事の信頼性向上 にご協力をお願いいたします。(2017年12月 )
C. Musès, Applied hypernumbers: Computational concepts, Appl. Math. Comput. 3 (1977) 211–226.
C. Musès, Hypernumbers II—Further concepts and computational applications, Appl. Math. Comput. 4 (1978) 45–66.
K. Carmody, Circular and hyperbolic quaternions, octonions, and sedenions, Appl. Math. Comput. 28:47–72 (1988)
K. Carmody, Circular and hyperbolic quaternions, octonions, and sedenions— further results, Appl. Math. Comput. 84:27–48 (1997)
外部リンク