ヤリ・リトマネン(Jari Litmanen, 1971年2月20日 - )は、フィンランド出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはMF、フォワード。
フィンランド代表の最多出場記録と最多得点記録を持つストライカー。
経歴
15歳まではアイスホッケーにも才能を発揮していたが[2]、以降サッカーに専念[2]、1987年、父も所属していた地元のクラブであるレイパス・ラハティでキャリアをスタート。1989年にはフィンランド代表に招集され、10月22日のトリニダード・トバゴ戦でデビューを飾る[2]。1990年にはフィンランド年間最優秀選手に選出された。
その後フィンランドのクラブチームを転々とし、1992年アヤックスの2週間の練習に参加し[2]、ファンファールの目に留まり[2]、アヤックス入り。1年目はデニス・ベルカンプの控えであったが[2]、1994-1995シーズンには26ゴールを決めリーグ得点王[2]、チャンピオンズリーグではチーム最多の6ゴールを決め[2]、優勝の原動力となり[2]、同年のバロンドール投票では第3位となった[3]。ストライカーとして、あるいはチャンスメーカーとして[2]、数々のタイトルをクラブにもたらした。
1999年にリーガ・エスパニョーラの強豪FCバルセロナへと移籍するが結果を残せず、1シーズンで去ることとなった。
バルセロナへは当時のルイ・ファン・ハール監督の肝煎りで入団し、背番号10を与えられたものの、3トップの更に下のポジションを任されたため、自ら最前線へ飛び出してゴールに絡むプレーが特徴のリトマネンは全くフィットしなかった。
更に悪いことに、この頃のバルサはファン・ハールのオランダ人偏重志向への批判が強く、本人はオランダ人ではないものの、アヤックスからの移籍となったリトマネンは、その批判の矢面に立たされることとなり、マスコミやバルセロニスタからリーグ3連覇を逃した戦犯のような扱いを受けた。
そして、子供の頃からの憧れと公言していたFAプレミアリーグのリヴァプールFCへ移籍。しかし、ここでも故障や選手層の厚さなどで出場機会に恵まれず、2002年にアヤックスへ復帰。その後、母国のFCラハティ、ハンザ・ロストックを経て、スウェーデンのマルメFFに2007年まで在籍した。
2008年1月からはフラムFCに加入したが、シーズン末に契約解除となった。8月にフィンランドリーグ・ヴェイッカウスリーガのFCラハティに短期契約で復帰することになった。
2009-2010シーズンにはリーグ戦21試合に出場し、5得点と存在感を発揮した。2010-2011シーズンからは古巣の強豪クラブHJKヘルシンキへ復帰した。シーズン終了後に引退した。
エピソード
マラドーナのファンであり[2]、ラテンの雰囲気を持つ風貌からディエゴと呼ばれていた[2]。
個人タイトル
出典
- ^ “Jari Litmanen - Century of International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/litmanen-intlg.html
- ^ a b c d e f g h i j k l TOYOTA CUP 1995 第16回大会パンフレト p.23
- ^ Ballon d’Or Winners-liveabout.com
関連項目
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